正親町天皇(読み)オオギマチテンノウ

デジタル大辞泉 「正親町天皇」の意味・読み・例文・類語

おおぎまち‐てんのう〔おほぎまちテンワウ〕【正親町天皇】

[1517~1593]第106代天皇。在位1557~1586。後奈良天皇の第2皇子。名は方仁みちひと弘治3年(1557)践祚せんそ毛利元就もうりもとなり父子の献上金で、永禄3年(1560)になって即位。のち、織田信長豊臣秀吉援助を受けて、皇室の諸儀式の回復努力

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精選版 日本国語大辞典 「正親町天皇」の意味・読み・例文・類語

おおぎまち‐てんのうおほぎまちテンワウ【正親町天皇】

  1. 第一〇六代天皇。後奈良天皇の第一皇子。名は方仁(しげひと)。弘治三年(一五五七践祚、三年後に毛利元就の献上金で即位の礼を行なう。また、織田信長、豊臣秀吉に働きかけて、窮乏状態にあった皇室の回復につとめた。在位三〇年。永正一四~文祿二年(一五一七‐九三

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朝日日本歴史人物事典 「正親町天皇」の解説

正親町天皇

没年文禄2.1.5(1593.2.6)
生年:永正14.5.29(1517.6.18)
戦国・安土桃山時代の天皇(在位1557~86)。後奈良天皇の第2皇子。諱は方仁。母は参議万里小路賢房の娘栄子。天文2(1533)年12月親王宣下,元服。弘治3(1557)年10月父天皇の没を受けて践祚。葬礼費は三好長慶が洛中棟別を課して徴収したが,遺骸放置2カ月余りにおよび,いわゆる皇室式微を印象づけた。即位礼も財源難で難航が予想されたが,永禄2(1559)年2月天皇は安芸吉田城主毛利元就に献金を依頼,同4月元就は銭2000貫を献じ,翌年5月即位礼が挙行された。毛利氏はこの献金を自負し,献上翌月に備中を平定した際には「御即位申沙汰仕り候によりて奇特に切り勝ちたり」と奏した。大名の意識に天皇への求心性があったと思われる。従来大名と天皇の間に政治性はないとみられていたが,正親町は今川義元に三河守を勅許し,織田信長には同10年11月に今後の軍事行動を鼓舞する綸旨を出すなど,注目すべき政治力を発揮している。 信長入京後はキリシタンや山門領の問題で対立する事件もあったが,両者の関係はおおむね良好で内裏修理,朝儀復興が進んだ。信長の出征に当たっては戦勝祈願を行い,戦地に勅使を派遣するなど信長の忠実な司祭として行動,また元亀1(1570)年の江濃越(近江,美濃,越前)一和,天正1(1573)年の足利義昭との和睦に際しては勅命を出して信長の窮地を救っている。しかし同4年興福寺別当の人事を巡り対立。伝奏蟄居という処分者を出し,以後信長は正親町を忌み嫌い,皇子誠仁親王への譲位を望んでたびたびこれを要請したが老獪な天皇は拒否を貫いた。同10年の武田征討後,信長の要請を認めて将軍任官を勅許したが実現せず,その後を継いだ羽柴(豊臣)秀吉は長久手の敗戦により関白就任の途を選び,これも勅許した。尊皇家秀吉との間は良好であった。文禄1(1592)年秋の後陽成による秀吉の渡海諭止は当時上皇であった正親町の意志とみられる。戦国の転変の世を生き抜き,皇家の権威を維持した天皇として重要。

(今谷明)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「正親町天皇」の意味・わかりやすい解説

正親町天皇
おおぎまちてんのう

[生]永正14 (1517).5.29. 京都
[没]文禄2 (1593).1.5. 京都
第106代の天皇(在位 1557~86)。名は方仁。後奈良天皇第2皇子,母は贈皇太后藤原栄子。弘治3(1557)年践祚したが,当時,国内は大いに乱れ,皇室の衰微など顧みられなかった。永禄3(1560)年毛利元就の献金によって初めて即位。次いで織田信長によって宮城の修補,供御田の回収,諸節会の復興などが行なわれ,さらに豊臣秀吉の援助により,応仁の乱以来紊乱した皇室の式典の整備や御料の献上などが行なわれた。在位 29年2ヵ月,天正14(1586)年後陽成天皇に譲位,太上天皇と号した。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。

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改訂新版 世界大百科事典 「正親町天皇」の意味・わかりやすい解説

正親町天皇 (おおぎまちてんのう)
生没年:1517-93(永正14-文禄2)

第106代に数えられる天皇。在位1560-86年。諱(いみな)は方仁(みちひと)。後奈良天皇の皇子,母は万里小路賢房の女栄子(吉徳門院)。1533年(天文2)12月親王および元服の儀を挙げて,57年(弘治3)10月践祚し,60年(永禄3)1月即位した。天皇の伝統的権威によって織豊2氏の国内統一事業を助け,またその尽力によって御料所の復旧・新設,禁中の修理,朝儀の復興などがなされた。86年(天正14)11月皇孫和仁親王(後陽成天皇)に譲位した。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「正親町天皇」の解説

正親町天皇 おおぎまちてんのう

1517-1593 戦国-織豊時代,第106代天皇。在位1557-86。
永正(えいしょう)14年5月29日生まれ。後奈良天皇の第2皇子。母は藤原栄子(吉徳門院)。弘治(こうじ)3年父の死で践祚(せんそ)したが,即位式は毛利元就(もとなり)らの献金により3年後におこなった。織田信長,豊臣秀吉らの援助で,宿願だった皇居の修理,伊勢神宮の造営や遷宮,朝儀の復興などにつくした。秀吉を関白に任じた翌年譲位。文禄(ぶんろく)2年1月5日死去。77歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は方仁(みちひと)。著作に「年中御作法留」,歌集に「正親町院御百首」。
【格言など】憂世(うきよ)とて誰れをかこたむ我れさへや心の儘にあらぬ身なれば(「正親町院御百首」)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「正親町天皇」の意味・わかりやすい解説

正親町天皇
おおぎまちてんのう
(1517―1593)

第106代天皇(在位1557~86)。後奈良(ごなら)天皇第1皇子、母は吉徳門院藤原栄子。名は方仁(みちひと)。1557年(弘治3)に践祚(せんそ)したものの戦国動乱のなかで即位式ができず3年後の60年(永禄3)毛利元就(もうりもとなり)の献上金により即位。戦乱で荒れた皇室料の回復などを依頼した勅命を諸国の戦国大名に発した。統一権力の確立を図る織田信長はこの勅命にこたえるとともに、天皇を積極的に活用した。信長が本願寺と一向一揆(いっこういっき)勢力を打倒するうえで80年(天正8)3月に行った天皇の勅命による講和策もその一つであり、天皇の側はそれらによって戦国時代の権威の低落状況から一歩抜け出すこととなった。陵墓は京都深草北陵。

[奈倉哲三]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「正親町天皇」の解説

正親町天皇
おおぎまちてんのう

1517.5.29~93.1.5

在位1557.10.27~86.11.7

後奈良天皇の第2皇子。名は方仁(みちひと)。母は万里小路賢房(までのこうじかたふさ)の女吉徳門院栄子。1533年(天文2)親王宣下。57年(弘治3)後奈良天皇の死去により践祚(せんそ)。即位の費用にも事欠くありさまだったが,68年(永禄11)の織田信長上洛以降は,信長・豊臣秀吉の宮廷復興策などにより権威を回復。天皇も85年(天正13)秀吉を関白に任じるなど,伝統的権威でこれを支えた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「正親町天皇」の解説

正親町天皇
おおぎまちてんのう

1517〜93
戦国・安土桃山時代の天皇(在位1557〜86)
後奈良天皇の第2皇子。1557年皇位を継いだが,即位式は3年後に毛利元就 (もとなり) の献金で行われた。また織田信長・豊臣秀吉が皇居造営や御料の献上をした。

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367日誕生日大事典 「正親町天皇」の解説

正親町天皇 (おおぎまちてんのう)

生年月日:1517年5月29日
戦国時代;安土桃山時代の第106代の天皇
1593年没

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