コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

正親町天皇 おおぎまちてんのう

8件 の用語解説(正親町天皇の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

正親町天皇

第百六代天皇。後奈良天皇の第一皇子、母は万里小路賢房の娘吉徳門院栄子。名は方仁。毛利元就の援助で即位礼を挙行。織豊政権の最盛期に、皇室の権威維持に努めた。また三条西公条・実枝に和歌・古典の指導を受け、和歌御会等の開催にも積極的であった。文禄2年(1593)崩御、77才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

おおぎまち‐てんのう〔おほぎまちテンワウ〕【正親町天皇】

[1517~1593]第106代天皇。在位1557~1586。後奈良天皇の第2皇子。名は方仁(みちひと)。弘治3年(1557)践祚(せんそ)毛利元就(もうりもとなり)父子の献上金で、永禄3年(1560)になって即位。のち、織田信長豊臣秀吉の援助を受けて、皇室の諸儀式の回復に努力。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

正親町天皇 おおぎまちてんのう

1517-1593 戦国-織豊時代,第106代天皇。在位1557-86。
永正(えいしょう)14年5月29日生まれ。後奈良天皇の第2皇子。母は藤原栄子(吉徳門院)。弘治(こうじ)3年父の死で践祚(せんそ)したが,即位式は毛利元就(もとなり)らの献金により3年後におこなった。織田信長,豊臣秀吉らの援助で,宿願だった皇居の修理,伊勢神宮の造営や遷宮,朝儀の復興などにつくした。秀吉を関白に任じた翌年譲位。文禄(ぶんろく)2年1月5日死去。77歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は方仁(みちひと)。著作に「年中御作法留」,歌集に「正親町院御百首」。
【格言など】憂世(うきよ)とて誰れをかこたむ我れさへや心の儘にあらぬ身なれば(「正親町院御百首」)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

正親町天皇

没年:文禄2.1.5(1593.2.6)
生年:永正14.5.29(1517.6.18)
戦国・安土桃山時代の天皇(在位1557~86)。後奈良天皇の第2皇子。諱は方仁。母は参議万里小路賢房の娘栄子。天文2(1533)年12月親王宣下,元服。弘治3(1557)年10月父天皇の没を受けて践祚。葬礼費は三好長慶が洛中棟別を課して徴収したが,遺骸放置2カ月余りにおよび,いわゆる皇室式微を印象づけた。即位礼も財源難で難航が予想されたが,永禄2(1559)年2月天皇は安芸吉田城主毛利元就に献金を依頼,同4月元就は銭2000貫を献じ,翌年5月即位礼が挙行された。毛利氏はこの献金を自負し,献上翌月に備中を平定した際には「御即位申沙汰仕り候によりて奇特に切り勝ちたり」と奏した。大名の意識に天皇への求心性があったと思われる。従来大名と天皇の間に政治性はないとみられていたが,正親町は今川義元に三河守を勅許し,織田信長には同10年11月に今後の軍事行動を鼓舞する綸旨を出すなど,注目すべき政治力を発揮している。 信長入京後はキリシタンや山門領の問題で対立する事件もあったが,両者の関係はおおむね良好で内裏修理,朝儀復興が進んだ。信長の出征に当たっては戦勝祈願を行い,戦地に勅使を派遣するなど信長の忠実な司祭として行動,また元亀1(1570)年の江濃越(近江,美濃,越前)一和,天正1(1573)年の足利義昭との和睦に際しては勅命を出して信長の窮地を救っている。しかし同4年興福寺別当の人事を巡り対立。伝奏蟄居という処分者を出し,以後信長は正親町を忌み嫌い,皇子誠仁親王への譲位を望んでたびたびこれを要請したが老獪な天皇は拒否を貫いた。同10年の武田征討後,信長の要請を認めて将軍任官を勅許したが実現せず,その後を継いだ羽柴(豊臣)秀吉は長久手の敗戦により関白就任の途を選び,これも勅許した。尊皇家秀吉との間は良好であった。文禄1(1592)年秋の後陽成による秀吉の渡海諭止は当時上皇であった正親町の意志とみられる。戦国の転変の世を生き抜き,皇家の権威を維持した天皇として重要。

(今谷明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

おおぎまちてんのう【正親町天皇】

1517‐93(永正14‐文禄2)
第106代に数えられる天皇。在位1560‐86年。諱(いみな)は方仁(みちひと)。後奈良天皇の皇子,母は万里小路賢房の女栄子(吉徳門院)。1533年(天文2)12月親王および元服の儀を挙げ,57年(弘治3)10月践祚,60年(永禄3)1月即位。天皇の伝統的権威によって織豊2氏の国内統一事業を助け,またその尽力により御料所の復旧・新設,禁中の修理,朝儀の復興などがなされた。86年(天正14)11月皇孫和仁親王(後陽成天皇)に譲位した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

おおぎまちてんのう【正親町天皇】

1517~1593) 第一〇六代天皇(在位1560~1586)。名は方仁しげひと。後奈良天皇の第一皇子。毛利元就の献上金によって即位。織田信長・豊臣秀吉らの援助を受け、衰微していた皇室の回復に尽力。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

正親町天皇
おおぎまちてんのう

[生]永正14 (1517).5.29. 京都
[没]文禄2 (1593).1.5. 京都
第106代の天皇(在位 1557~86)。名は方仁。後奈良天皇第2皇子,母は贈皇太后藤原栄子。弘治3(1557)年践祚したが,当時,国内は大いに乱れ,皇室の衰微など顧みられなかった。永禄3(1560)年毛利元就の献金によって初めて即位。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

正親町天皇
おおぎまちてんのう
(1517―1593)

第106代天皇(在位1557~86)。後奈良(ごなら)天皇第1皇子、母は吉徳門院藤原栄子。名は方仁(みちひと)。1557年(弘治3)に践祚(せんそ)したものの戦国動乱のなかで即位式ができず3年後の60年(永禄3)毛利元就(もうりもとなり)の献上金により即位。戦乱で荒れた皇室料の回復などを依頼した勅命を諸国の戦国大名に発した。統一権力の確立を図る織田信長はこの勅命にこたえるとともに、天皇を積極的に活用した。信長が本願寺と一向一揆(いっこういっき)勢力を打倒するうえで80年(天正8)3月に行った天皇の勅命による講和策もその一つであり、天皇の側はそれらによって戦国時代の権威の低落状況から一歩抜け出すこととなった。陵墓は京都深草北陵。[奈倉哲三]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

正親町天皇の関連キーワード五辻富仲道恵文閑山岡如軒北小路俊孝安土桃山時代安土桃山文化織豊時代桃山時代伊勢・安土桃山文化村

今日のキーワード

大統領補佐官

各種政策の立案その他に関し,側近として大統領に助言する役職だが,実質上はブレーン,顧問として多面的な役割を担う。憲法で定められた唯一の行政責任者である合衆国大統領は,強大な権力を持つにもかかわらず,議...

続きを読む

コトバンク for iPhone

正親町天皇の関連情報