蘇我遠智娘(読み)そがのおちのいらつめ

朝日日本歴史人物事典 「蘇我遠智娘」の解説

蘇我遠智娘

没年:白雉2?(651)
生年:生年不詳
中大兄皇子(天智天皇)の妃。蘇我倉山田石川麻呂の娘。蘇我造媛,美濃津子娘,茅渟娘ともいう。皇極3(644)年,中臣鎌子が中大兄皇子を味方にひき入れようと石川麻呂の長女を妃に出させる途中,石川麻呂の異母弟身狭(日向)に横取りされてしまった。憂えている父を見て,遠智娘は姉の代わりに自ら進んで中大兄皇子の妃となり,持統天皇ら1男2女を生む。大化5(649)年,蘇我身狭の讒言により石川麻呂と妻子らは自殺して果てた。父の屍が斬られたことを知った遠智娘は,心痛のあまり死んでしまった。中大兄皇子は大いに悲しんだという。大化5年の2年後,白雉2(651)年に末子を生んでいるので,没年はそれ以降か。

(明石一紀)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蘇我遠智娘」の解説

蘇我遠智娘 そがの-おちのいらつめ

?-? 飛鳥(あすか)時代,天智(てんじ)天皇の妃。
蘇我倉山田石川麻呂の娘。蘇我姪娘の姉。造媛(みやつこひめ)ともいう。大田皇女,鸕野讃良(うののさららの)皇女(持統天皇),建(たけるの)皇子を生んだ。

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