蘇我倉山田石川麻呂(読み)ソガノクラヤマダノイシカワノマロ

精選版 日本国語大辞典 「蘇我倉山田石川麻呂」の意味・読み・例文・類語

そが‐の‐くらやまだのいしかわまろ【蘇我倉山田石川麻呂】

  1. 蘇我馬子の孫で倉麻呂の子。入鹿従兄弟蝦夷に反対して中大兄皇子・中臣鎌足らと結び、大化改新を断行した。入鹿を殺したとき、百済からの上表文を読んだ。改新右大臣として活躍したが、弟日向(ひむか)讒言(ざんげん)によって自殺した。大化五年(六四九)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蘇我倉山田石川麻呂」の意味・わかりやすい解説

蘇我倉山田石川麻呂
そがのくらのやまだのいしかわのまろ
(?―649)

飛鳥(あすか)時代の右大臣。蘇我倉山田石川までが姓、麻呂が名。蘇我臣馬子(おみうまこ)の孫で、倉麻呂(くらまろ)(雄当(おまさ)ともいう。馬子の子)の子。本宗家の鞍作(くらつくり)(入鹿(いるか))との反目から、本宗家討滅計画に加わり、娘の造媛(みやつこひめ)(遠智娘(おちのいらつめ))、姪娘(めいのいらつめ)を葛城(かずらき)皇子(中大兄(なかおおえ))の妃に入れた。なお娘の乳娘(ちのいらつめ)は軽(かる)皇子(孝徳(こうとく)天皇)の妃とした。蘇我本宗家滅亡後の孝徳天皇の新政権では、右大臣となった。しかし、新政権の下では、吉野に逃げ入った大兄古人(ふるひと)皇子やその一族の処置、東国国司らの成績再審査事件などで、左大臣阿倍内麻呂(あべのうちまろ)やその支持勢力と対立した。その結果、阿倍内麻呂の死の直後の649年(大化5)3月、異母弟蘇我日向(ひむか)に讒言(ざんげん)され、中大兄の追討を受けることになった。難波(なにわ)から2子法師(ほうし)・赤猪(あかい)を連れて大和(やまと)の山田寺へ逃げ帰った麻呂は、長子の興志(こごし)らの抗戦の意見を退け、妻子らとともに自殺した。

[門脇禎二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「蘇我倉山田石川麻呂」の意味・わかりやすい解説

蘇我倉山田石川麻呂
そがのくらやまだのいしかわまろ

[生]?
[没]大化5(649).3.25. 大和
古代の豪族。大化改新政府の右大臣。蘇我馬子の孫,蘇我倉麻呂の子。三韓朝貢の日,中大兄皇子(天智天皇)らとともに蘇我氏の宗家,蘇我入鹿らを殺した。のち,異母弟の蘇我日向(そがのひむか)に讒陥せられ,山田寺で自殺した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蘇我倉山田石川麻呂」の解説

蘇我倉山田石川麻呂 そがのくらやまだの-いしかわまろ

?-649 飛鳥(あすか)時代の豪族。
蘇我馬子の孫。皇極天皇4年中大兄(なかのおおえの)皇子(天智(てんじ)天皇)と中臣(なかとみの)(藤原)鎌足(かまたり)に荷担して,従兄弟の蘇我入鹿(いるか)を暗殺。孝徳天皇の即位とともに右大臣となったが,異母弟蘇我日向(ひむか)の讒言(ざんげん)によって天皇の兵に攻められ,大化(たいか)5年3月25日自殺。

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旺文社日本史事典 三訂版 「蘇我倉山田石川麻呂」の解説

蘇我倉山田石川麻呂
そがのくらやまだいしかわまろ

?〜649
改新政府の右大臣
蘇我石川麻呂ともいう。馬子の孫。645年蘇我蝦夷 (えみし) ・入鹿 (いるか) が滅ぼされ,大化の改新が始まると,右大臣として改新政治に活躍した。649年謀反の疑いで中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ) らに攻められ自殺。

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