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蘇我倉山田石川麻呂 そがのくらやまだのいしかわまろ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蘇我倉山田石川麻呂
そがのくらやまだのいしかわまろ

[生]?
[没]大化5(649).3.25. 大和
古代の豪族。大化改新政府の右大臣。蘇我馬子の孫,倉麻呂の子。三韓朝貢の日,中大兄皇子らとともに蘇我氏の宗家入鹿らを殺した (→石川氏 ) 。のち,異母弟蘇我日向に讒せられ,山田寺で自殺した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

蘇我倉山田石川麻呂 そがのくらやまだの-いしかわまろ

?-649 飛鳥(あすか)時代の豪族。
蘇我馬子の孫。皇極天皇4年中大兄(なかのおおえの)皇子(天智(てんじ)天皇)と中臣(なかとみの)(藤原)鎌足(かまたり)に荷担して,従兄弟蘇我入鹿(いるか)を暗殺。孝徳天皇の即位とともに右大臣となったが,異母弟蘇我日向(ひむか)の讒言(ざんげん)によって天皇の兵に攻められ,大化(たいか)5年3月25日自殺。

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朝日日本歴史人物事典の解説

蘇我倉山田石川麻呂

没年:大化5.3.25(649.5.11)
生年:生年不詳
7世紀前半の有力豪族。蘇我石川麻呂とも。父は蘇我馬子の子雄正(雄当とも書く)で,倉麻呂とするのは誤り。大臣蘇我蝦夷の甥,入鹿のいとこに当たる。麻呂の家系は,蘇我氏のなかでも朝廷の倉の出納,管理に当たり,内外の諸集団からの貢納の受納とそれに関する大王への報告に関与した。本拠地も,本宗家とは別に河内(大阪府)の石川にあり,山田も,本来は石川地方の地名であった。早くから本宗家とは異なる独自の政治的行動を示した麻呂は,有力な大王候補,軽皇子(のちの孝徳天皇)や中大兄皇子(のちの天智天皇)に,娘の乳娘や遠智娘をとつがせていたが,皇極4(645)年6月,蘇我の血をひく古人大兄皇子の即位を策す蝦夷,入鹿父子の殺害(いわゆる大化の改新始まり)に加わり,大王との身内的関係と大臣位を独占してきた蘇我本宗家に取って代わった。この功績により,麻呂は新政権の右大臣に任命された。大化5年,異母弟日向の密告で,中大兄暗殺計画の嫌疑をかけられたが,孝徳天皇への釈明を一切こばみ,難波から飛鳥にもどり,「生々世々,君を怨みじ」と告げ,造営中の山田寺(桜井市)で子弟ともども自害した。遺品は,中大兄への譲渡を予定した品々であふれていたというから,中大兄への害意は事実無根であろう。クーデタの以前から孝徳天皇を支持していた麻呂が,しだいに中大兄に接近するのをみて孝徳側近が快く思わず,そこで麻呂の「謀反」を仕立て上げたというのが真相ではなかろうか。<参考文献>加藤謙吉『蘇我氏と大和王権』,遠山美都男『大化改新

(遠山美都男)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蘇我倉山田石川麻呂
そがのくらのやまだのいしかわのまろ
(?―649)

飛鳥(あすか)時代の右大臣。蘇我倉山田石川までが姓、麻呂が名。蘇我臣馬子(おみうまこ)の孫で、倉麻呂(くらまろ)(雄当(おまさ)ともいう。馬子の子)の子。本宗家の鞍作(くらつくり)(入鹿(いるか))との反目から、本宗家討滅計画に加わり、娘の造媛(みやつこひめ)(遠智娘(おちのいらつめ))、姪娘(めいのいらつめ)を葛城(かずらき)皇子(中大兄(なかのおおえ))の妃に入れた。なお娘の乳娘(ちのいらつめ)は軽(かる)皇子(孝徳(こうとく)天皇)の妃とした。蘇我本宗家滅亡後の孝徳天皇の新政権では、右大臣となった。しかし、新政権の下では、吉野に逃げ入った大兄古人(ふるひと)皇子やその一族の処置、東国国司らの成績再審査事件などで、左大臣阿倍内麻呂(あべのうちまろ)やその支持勢力と対立した。その結果、阿倍内麻呂の死の直後の649年(大化5)3月、異母弟の蘇我日向(ひむか)に讒言(ざんげん)され、中大兄の追討を受けることになった。難波(なにわ)から2子法師(ほうし)・赤猪(あかい)を連れて大和(やまと)の山田寺へ逃げ帰った麻呂は、長子の興志(こごし)らの抗戦の意見を退け、妻子らとともに自殺した。[門脇二]

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