日本大百科全書(ニッポニカ) 「行勇」の意味・わかりやすい解説
行勇
ぎょうゆう
(1163―1241)
鎌倉前期の臨済宗の僧。号は退耕(たいこう)、荘厳房(しょうごんぼう)ともいう。相模国(さがみのくに)酒匂(さこう)の生れ(一説には京都)。四条(藤原)氏ともいうが、姓は不詳。はじめ御室(おむろ)仁和寺(にんなじ)に入って玄信(げんしん)と称し、東大寺で受戒して荘厳房行勇と改めた。鎌倉鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の供僧(くそう)となり、永福寺(えいふくじ)、大慈寺(だいじじ)に住した。鎌倉幕府将軍源頼朝の死後、北条政子(ほうじょうまさこ)剃髪の戒師となり、2代将軍源頼家(よりいえ)・3代将軍源実朝(さねとも)の帰依を受け、幕府主催の多くの法要の導師を勤めたり、実朝と仏法談義をしたりした。栄西(えいさい)の鎌倉入府に伴って弟子となり、その法を嗣(つ)ぐ。栄西の後を受けて東大寺大勧進職(だいかんじんしき)につき、寿福寺(じゅふくじ)・建仁寺(けんにんじ)の2世となり、政子が建立した高野山(こうやさん)金剛三昧院(こんごうざんまいいん)にも招請される。鎌倉に浄妙寺(じょうみょうじ)・東勝寺(とうしょうじ)を開いて栄西の兼修禅を広めた。
[中尾良信]
『葉貫磨哉著『中世禅林成立史の研究』(1993・吉川弘文館)』▽『中尾良信著『日本禅宗の伝説と歴史』(2005・吉川弘文館)』