歴史を表すhistoryという語は,historia(探究)というギリシア語に由来している。歴史が単に人間世界で生起する諸事件の連続や総和なのではなく,その諸事件の意味連関を探究する人間の作業でもあるということを,その語の由来が示している。ドイツ語では,その前者をGeschichte,後者をHistorieと別の言葉で表示している。本項では,歴史意識や歴史叙述のあり方をいくつかの地域に即して概観するが,近代以後の歴史学については別項〈歴史学〉をあわせて参照されたい。
ヨーロッパ
歴史叙述の発生
探究の対象として歴史を把握したギリシア人は,ヨーロッパ世界にあって初めて歴史書を残した。ヘロドトスは前5世紀のペルシア戦争を事件の経過に従って忠実に再現しようとしたが,その際にも,諸民族が置かれた地理的条件を考察するなど,探究の意志が働いている。トゥキュディデスは,ペロポネソス戦争を描いたが,歴史を動かす人間の資質に関心を寄せ,また歴史への探究によって,未来の行動への準則が学び取られると考えた。このような傾向は,ローマの発展を描いたギリシア人歴史家ポリュビオスではより顕著であり,歴史叙述の実用性・教訓性が強調されている。しかし,ギリシア人は,一般的には人間世界に生起する事件には,形式的な循環性があるとし,サイクルの継起によって説明しようとする志向が強かった。その背景には,現象よりは本質に迫ろうとするギリシア哲学の思潮がある。このため,探究の対象たる歴史の諸側面を詮索する独創性を示しながらも,ギリシア人は歴史思想を大成することはなかった。ローマは,カエサルの《ガリア戦記》,リウィウスの《ローマ史》やタキトゥスの《歴史》など長大な叙述を残した。しかし,ギリシア人のような知的省察によってよりはむしろ,自国の過去と現在を,ローマ市民に,より接近しやすい形で叙述し,正当化したり,ときには非難したりといった価値評価を,強く介入させて論じているのである。
キリスト教歴史観と世界年代記
初期キリスト教とこれを受け継いだヨーロッパ中世にあっては,ヘブライズムの独特な歴史観念を枢軸に置いている。ユダヤ教とともに生まれたこの歴史観は,歴史を始原から終末に至る有限の時間とみなし,すべての事件はその時間展開のなかで位置と意味をもつものと考えた。イエスの出現までの経緯はもとより,イエスの受難とその後のキリスト教会と世俗世界における諸事件も,時代の推移していく論理のうえに定置されていることになる。最初の教会史家というべきカエサレアのエウセビオスの《教会史》(4世紀初め)は古代の全史を,そうした視点のもとに解釈し,キリスト教徒の殉教,教会組織の整備,教会内の対立などに意味を付与しようとした。アウグスティヌスは具体的な歴史叙述は試みていないが,《神の国》において人類の全史を神の摂理の具体化と人類の救済への過程とみなすキリスト教歴史観を確立した。オロシウスはこの史観に基づき具体的な歴史を描いて,後世にしばしば引用された。
中世初期には,古典古代の教養を受け継いだ歴史書が,ヨーロッパにおいて書かれた。トゥールのグレゴリウスの《フランク人の歴史》,ベーダの《イングランド教会史》,セビリャのイシドルスの《年代記》などである。キリスト教的世界観によって裏づけられながら,同時代に生起した諸事件を活写している。これらはいずれも,キリスト教がいまだ支配的な秩序たりえていない状況のもとで,教会の内外での多様な抗争対立について的確な判断を下している。中世にはしばらく歴史著作の低調な時代が続いたが,11,12世紀から多くの歴史が書かれ,また独特の歴史感覚が養われていった。一つの類型は,世界年代記(年代記)と称されるもので,アダムとイブによる人類創始から筆を起こし,聖書や伝説上の英雄を経て現代に至っている。アウグスティヌス以来の救済史観念と,これに対応する地上の諸事件とが並行的に語られる。フライジング司教オットーの《年代記》(1143-46執筆)が最も代表的な作品であるが,素材の多くは同時代に限られているとはいえ,世界史に対する普遍的な視野が導入されている。同様の記述スタイルは,中世の都市年代記においても採用されているが,この場合には,むしろ都市もしくはこれに代わる部族,地方,修道院,教会などについての個別的な歴史であり,長期間伝承もしくは記録されたものに基づいて,中世人の歴史感覚を如実に語っている。こうした個別史の伝統は,王国年代記としてフランス,スペインなどで結実し,また十字軍や伝道などの事件史記録,報告へも受け継がれた。
中世には,キリスト教会の救済史的見方は強弱いずれにせよ,歴史観に受け入れられているが,初期キリスト教が抱いていた緊迫した終末観は弱まり,歴史哲学としては抽象化と現実肯定が著しかった。しかし,12世紀末にフィオーレのヨアキム(ヨアキム・デ・フローリス)が現れ,特異な千年王国説を提起して,新しい局面を開いた。ヨアキム自身は歴史哲学上の思弁を出なかったが,おりしも登場したキリスト教異端派のなかに受け継がれて,現実感のある歴史感覚を生み出し,歴史著作を残すには至らなかったが,近世以降にまでセクト(分派)史の発想として生きつづけた。
歴史意識,歴史叙述における諸モティーフ
ルネサンス以降,歴史叙述とその哲学は,歴史学という専門化された領域を徐々に形成していく。この過程については〈歴史学〉の項目を参照されたい。しかし思弁としての歴史哲学はもとより,社会行動や,日常行動における歴史感覚は,歴史学とは別に固有の展開を示している。それらは国家と経済,法と社会,科学と技術,文学や美術,生活と人生のなかに,個々に探られねばならないであろう。
古典古代から現代に至るヨーロッパの歴史意識,歴史叙述において主要なモティーフとなっているものは,次のいくつかに要約することができる。それらは,時代を通してほぼ常に歴史に接するときのヨーロッパ人の意識上の問題構造をなしている。
形式と用途
歴史の思考,叙述の目的に関しては,いくつかの異なった見解がある。現実の行動に対する先行規範もしくは教訓とみるもの,あるいは未来の予測のための判断材料とみるもの,あるいは先人を顕彰し記念するため,共通の過去記憶を共同で確認して連帯をはぐくむためなど,多様である。この目的・用途に応じて,現実の歴史叙述の形式も多様である。物語風歴史は,最も古くからある形式であり,叙事詩の伝統を引いている。これに対して,世界救済であれ,階級闘争であれ,なんらかの理念の実現過程の描写を基調とした理念史の形式がある。また単なる備忘記録から出発しながら,大小さまざまな事実の膨大な連続によって,おのずから複雑な歴史過程を描写しうる年代記の形式がある。歴史の形式と用途は,これらのなかから選択される。
歴史叙述の対象と主体
叙述の対象として何を選ぶかは,単に技術的な制約ばかりか,叙述者の意識によって決定される。ヘロドトスやトゥキュディデスがペルシア戦争,ペロポネソス戦争を選んだのは,目撃者の資料が多いだけではなく,ギリシア諸ポリスやその周辺世界の配置・関連が,最も強烈に表現される場とみなしたからである。また中世キリスト教の救済史観に基づいた人びとが,世界史を対象に選んだのは,世界全体についての情報が十分に入手されたからではなく,すべての歴史の細部は,全世界の救済にかかわる限りで意味を有すると考えたからである。こうした事情は,中世末から出現する国民史や,また19世紀のそれにもうかがうことができる。そこでは統合体としての国家が強い関心の的となっていたのである。これに対して叙述者の主体は,しばしば対象と同一化されることもある。たとえばローマ市民リウィウスとか,国民史,セクト史における国民,信徒などの場合である。しかし,これに対して,対象に対する主体の部分性,距離を意識する叙述が,同じセクト史に現れるし,ことに近代の階級史観にあっては,特定の階級を主体とする抑圧と解放とが問題とされる。
進歩と終末
一般に歴史叙述や歴史意識のなかにあっては,中性的な時間のうえで,諸事件は脈絡なしに生起するのではなく,それらは一定の向きをもっている。歴史展開を進歩向上とみるものの典型は,18世紀以降出現した進歩史観である。進歩の窮極に何ものかが想定されるかいなかはともあれ,ある種の規準に即して時代とともに進歩が達成されるものと考えられている。これに対し,過去の黄金時代からの堕落と最終的な破滅を想定する終末観がある。古くはヘシオドスにも現れるが,この史観は現状に対する不満・批判を強く体現しており,歴史叙述全体が攻撃的性格をもつことになる。ただし,終末観はしばしば,没落の最終段階での全面的な改編と,理想の突然の実現を期待する,いわゆる千年王国説に転ずることがある。近代歴史学がもつ発展段階論は,さまざまな内実をもつとはいえ,一般には進歩もしくは終末のいずれかを科学的に理論化したものである。
循環性と一回性
歴史的時間はまた,形式上二つに区分される。第1は,歴史は循環するとみるものであり,〈歴史は繰り返す〉という常識的命題にも沿っている。その循環路の厳密な画定の存否はさておき,古来,しばしば唱えられてきたところである。ギリシア人の採用した所説はトゥキュディデスによく現れるが,この説でも,進歩は否定されることなく,一種のらせん状の循環とみなされており,近代にあっても受け継がれている。第2は,歴史的時間には起点と終点とがあって,この有限の時間軸上を移行するものとし,個々の事件はその軸上の位置によって決定されるとみるものである。キリスト教救済史観はもとより,社会主義社会を終結点に想定するマルクス主義史観や,進歩の哲学においても,この立場が選ばれることが多い。しかしまた,一回性の極度の強調によって,すべての歴史的な事件と存在には論理的脈絡はなく,相対的に自立しているという思想も生まれた。近代の歴史主義と称されるものの一つの形態であり,思弁的な深さを伴って,学問的歴史学に対する強い抵抗を示すことがある。
過去と現在と未来
歴史について思考し叙述する現在については,単なる時間軸上の一地点以上の特別な意味が付与されることが,しばしばである。すべての過去の蓄積の結果としての現在,という常識的な見方に対して,現在を特定の遠い過去の蘇生とみる見方もある。ルネサンス人文主義の歴史感覚はそうしたものといわれ,また抑圧からの解放をテーマとした国民史,セクト史などは同様の形をとってきわめて活力のある意識と叙述を生み出す。また,学問的歴史学は,現在のかなたに未来を予測することに対して禁欲的なのが通常であるが,思弁的もしくは文学的表現の一環として,ユートピア構想による未来史描写がみられることは多い。この場合に関していえば,SF的な未来像とともに,逆ユートピアの名で知られる,未来における否定的要素の強調も,歴史感覚の一形態とみなすことができる。
摂理と法則
キリスト教的な摂理であれ,科学理論上の法則であれ,歴史の展開に対して,規則性もしくは意図性を指摘する見解がある。法則とは,神を失った摂理であるという見方をとれば,両者はヨーロッパにおいては,一貫して保たれているといえる。最も典型的な法則史観であるマルクス主義史観は,発展段階の整然たる実現と,資本主義社会の必然的な終焉を歴史の理法とみなしている。この思考法は,それに先立ったヘーゲルの歴史哲学における理性の狡知を非人格化して法則にしあげたものである。他方,摂理,法則に対して対抗的な考え方がある。歴史の進行は当事者たる人間の自由意志によるのであり,ことに代表的な個人や影響力ある集団・階層の力を重視すべきだとするものである。
科学と文学
近代的学問のなかでの実証主義化した専門的歴史学の登場は,歴史の意識と叙述を一変させ,歴史学は科学の一分野として成長していった。しかしこの動きに対して,歴史は科学的厳密さになじまないものであるとする考えは一貫して存在した。ことに近代歴史学の成果を受け取りつつも,歴史は窮極的には問題解決の知的営為ではなく,叙述の文体にかかわるものだとする意見は根強い。イギリスなどでは,最高の歴史家は最高の文学者であると考えられており,人文学としての歴史学の伝統を保持すべきだと論じられる。この主張は,歴史学の科学的厳密さがいかに増大しても消失することはないであろう。
→世界史 →歴史哲学
執筆者:樺山 紘一
日本
中国,朝鮮との接触のなかで,文字を学び,暦や紀年の知識を得た日本人は,国内の統一を達成した大和朝廷の正統性と,先進文化をもつ中国,朝鮮に対する日本の独自性とを主張することを通じて,自国の歴史を考えるようになった。律令国家が,8世紀初頭から2世紀にわたって編纂した正史,《日本書紀》《続日本紀》《日本後紀》《続日本後紀》《日本文徳天皇実録》《日本三代実録》は,古来六国史と総称されているが,全書名に共通の語が〈日本〉であることに,国史編纂の意識の一面が表れている。中国に対して日本の独自性を主張することと結びついた歴史のとらえ方は,その後の日本人の歴史意識に大きな影響を与えた。中国の正史や仏典における歴史のとらえ方は,世界の成立ちと,そのなかでの人間の位置について説き明かす部分をもっていたが,そうした外来文化の影響下で自国の歴史を考えるようになった日本人は,普遍的な世界についての説を受容しながら,他方で日本の特殊なあり方を主張しようとしたために,特殊性に価値をみいだすことになり,日本の神々と万世一系の天皇がそれを支えていると考えた。したがって,儒教の天の思想や仏教の末法思想などを前提として歴史を考えながら,そのなかで神々や天皇と天や仏菩薩との関係がつきつめられることはなく,万世一系の天皇がそのまま有徳の聖天子であったり,神々が仏菩薩と同体であったりするといった理屈で両者の関係が説明され,根本的な究明は行われないままに,日本歴史の独自性のみが強調されることが多かった。しかもそうした独自性が,生活や習俗などの面から考えられるのではなく,国家のあり方のみをめぐって論じられることが多かったために,歴史は皇位継承の経緯を中心に考えられ,朝廷の外の歴史,私的な生活や地方の歴史に対する関心はきわめて薄かった。日本の歴史は,皇室の系譜と,天皇から政治をゆだねられた政権担当者の交替としてとらえられるのが基本的な形であり,強固な伝統となった。以下,時代を追って,日本人が日本の歴史をどのようにとらえてきたかをみたい。
古代
《日本書紀》は720年に完成した最古の国史であるが,その成立には長い前史があった。統一国家の形成へと進み始めた6世紀の中ごろ,天皇家の系譜を記す〈帝紀〉と,神話・伝承をまとめた〈旧辞〉が作られたが,7世紀に入って国家の統一がさらに進むなかで,歴史としての骨格を明確にした〈天皇記〉が聖徳太子らによって編纂された。それらの書は現存しないが,そうした修史の営みを受け継いで《古事記》や《日本書紀》が完成した。中国に学んで律令を制定した朝廷は,中国の正史に倣って国史を編纂したが,《日本書紀》は,神話を冒頭に置いて天皇の正統化を行い,歴史を多面的にとらえた紀伝体の形をとらずに,歴代天皇の実録を編年体で記述していくなどの点で,中国の正史とは異なる性格のものであった。そうした《日本書紀》の性格は,後の国史に受け継がれ,日本の歴史のとらえ方の基本的な枠組みとなった。六国史の編纂は国家の事業として進められたが,それに参加したのは中国の経書・史書に通じた学者たちで,その学問は9世紀以降紀伝道(きでんどう)と呼ばれた。律令国家を支えた官人たちは,政務処理のために,先例を求めて六国史を参照することが多かったが,菅原道真が編纂した《類聚国史》は六国史の記事を分類再編成したもので,その構成は公家たちの歴史に対する関心のあり方をよく示している。国史の編纂は10世紀に入ってとだえたが,《日本紀略》《百錬(ひやくれん)抄》など,六国史を簡略にした形の歴史は種々編纂され,歴代天皇を中心とした年代記の類も次々に作られ,公家社会のあり方を示すものとして参照された。
中世
10世紀以降,日本と中国との緊張は希薄になり,日本を総体的にとらえようとする関心も後退した。そうしたなかで,中国的なものを基準としてあるべき秩序を説くのではなく,あるがままの人間をとらえることによって日本的なものを描き出そうとするかな文学が発達し,国史に対する物語の立場が主張されるようになった。また,国史の埒外に追いやられていた雑事を記述する説話の集成が盛んになり,歴史の世界の周辺への関心が高まった。そして,そうした動きのなかで日本を,天竺(てんじく)・震旦(しんたん)・本朝という三国世界の辺土と考え,釈迦の時代からの一方的な下降を説く末法思想が受容されるなど,日本人の歴史に対する考え方に陰影が加わることになった。このような歴史の世界の拡大と多様化を背景にして,物語的な手法による《栄華物語》,昔語りの伝統と紀伝体的な構成とを併せた《大鏡》が現れ,和文による歴史叙述の源流となった。他方,新興の武家の活動を,合戦の記述を中心にとらえる軍記物が現れた。《平家物語》や《太平記》は,合戦を政治の表れとしてとらえ,政治を対象する思想をもつことによって,合戦記を歴史に高め,中世的な歴史の世界をひらいた。また,軍記物の流布を通じて,歴史に関する知識が広く武士庶民の間に伝えられたこともみのがせない。こうしたなかで,武家の台頭に抗して公家の立場を守ろうとする人々は,国初以来の歴史を再確認することによって,社会のあるべき姿をみいだそうとした。慈円の《愚管抄》,北畠親房の《神皇正統記》はその例である。また,公家の間では,年中行事や有職故実との関係で歴史が考えられ,数多くの日記が記され伝えられた。そうした関心は武家社会にも及び,《吾妻鏡》をはじめとする日記体の歴史が編纂され,大寺社でも記録の整理が進められた。中世に入って,仏教的な歴史思想が浸透するのに対して,神官の間で《日本書紀》の神話の部分の講読が盛んになり,神話と歴史を結びつける神道的な歴史思想が形成された。また,中世を通じて盛んに作られた寺社縁起は,土着の信仰を背景にした歴史のとらえ方を示すものとして注目すべきものである。
近世
中世末戦国の動乱を経て近世社会の秩序が浮かび上がってくると,戦乱を勝ち抜いた将軍家や諸大名は,自己の立場を儒教思想によって正統化し,歴史の編纂を通じてそれを主張しようとした。また,武家の政治的優位が確立するなかで,古代・中世の歴史の対象化が進み,日本の歴史を総体的にとらえようとする動きがおこった。儒教の原理によって日本の歴史をとらえる試みは,五山の禅僧の間で始められたが,幕府や大名に仕える儒学者たちは,易姓革命の思想と儒教的な政道論を援用して,近世社会の成立過程を説明し,権力の正統化を行った。徳川家康の事績をまとめた《武徳大成記》,林家で編纂された《本朝通鑑》はその代表的な例であるが,水戸の徳川光圀が朱子学的な名分論に立って編纂を企てた《大日本史》は,完成までに2世紀を超える大事業となり,その間に形成された水戸学は,日本の歴史のなかで名分を明らかにしようとした結果,伝統的な歴史意識と結びついた特異な儒教へと展開した。また,朱子学者の新井白石は,儒教的な合理主義の立場に立ち,《読史余論》《古史通》をはじめとする優れた歴史書を著した。儒学者による歴史の編述の盛行は,実証的な歴史研究を促し,古学派の学者たちは,古典の客観的な研究を進めた。こうした動きはやがて国学の発展にも刺激を与え,日本の古典をあるがままにみることによって,歴史を内在的にとらえようとする立場が確立し,考証的な研究にも優れた成果が生まれた。19世紀に入る頃から,幕藩体制の矛盾が覆い難いものとなり,加えて対外緊張が強まってくると,広く庶民の間でも歴史に対する関心が高まり,さまざまな史論が現れた。なかでも頼山陽の《日本外史》《日本政記》は広く読まれ,その朱子学的な歴史のとらえ方は,幕末の尊皇論に大きな影響を与えた。さらに,幕末期に書かれた青山延于の《皇朝史略》,岩垣松苗の《国史眼》などの通俗的な歴史書は,歴史知識の普及に大きな役割を果たし,国史の枠組みを再確認することを通じて,近代の国民意識の基盤を作った。
近代
徳川幕府の倒壊後,国家の統一が急がれるなかで,天皇を中心として日本歴史の独自性を主張する,伝統的な歴史のとらえ方は重要な役割を背負うことになった。大政奉還・王政復古を正統化するための歴史は,大化改新,建武中興,明治維新を,日本歴史の三大改革と考える歴史の見方へと展開し,それがその後の国史の基本となった。もともと,為政者のための学問として学ばれていた天下国家の歴史は,国民意識の形成のために重要な意味をもつものと考えられ,国家主義的な教育の中心に据えられた。他方,幕末以来西欧の歴史が紹介されるなかで,宗教や文化,庶民生活,産業や経済などの歴史が考えられるようになり,普遍的な立場から日本の歴史をとらえようとする動きがおこった。田口卯吉の《日本開化小史》,福沢諭吉の《文明論之概略》は,その流れを代表するものである。開国以来,西欧化・近代化の道を進み始めた日本人にとって,歴史を文明の発展としてとらえることは,西欧先進国に追いつく可能性を明らかにする歴史の見方として受け入れられた。そして,そうした見方で日本の歴史をとらえることは,日本の歴史と西欧の歴史との間の類似性をみいだそうとする方向へ進み,脱亜論的な立場を支えることになった。こうして近代の日本では,日本の歴史の独自性を強調する伝統的な歴史のとらえ方と,日本の歴史のなかに普遍的なものにつながる面をみいだそうとする近代的な歴史のとらえ方とが,対立する二つの流れとして現れることになった。それは,国粋主義的な歴史と,近代の人文・社会諸科学に支えられた歴史との対立として現れたり,それぞれの流れのなかにさまざまな変容と分化が現れたりして,きわめて複雑な様相を呈してきた。近代化の新しい段階に到達し,非西欧的な国々から新たな問題が提起されるなかで,日本人は自国の歴史のとらえ方についても大きな転期に立たされている。
執筆者:大隅 和雄
中国
自覚的歴史の成立
世界を時間の軸によって認識し,あるいは記述するものが歴史であるとすれば,中国におけるその営みは古く,世界に比類ないほど広大かつ持続的である。殷は発達した暦法をもっており,1年は祖祭のサイクルによって成り立っていたが,これを記述した卜辞は中国最古の歴史叙述ということができる。干支や〈何月〉あるいは〈王の何祀〉というように日,月,年を表す紀時法もすでに殷代に始まる。卜辞は記録を目的とするものではないが,王の狩猟を記録した,卜占とかかわりのない獣骨文も発見されている(甲骨文,甲骨学)。金文も諸部族の歴史にかかわる記事を含む。
周は殷の叙述形式を継承するが,その創業期を過ぎると,史官の手で口頭伝承を記録し,あるいはそれらを集成することが始まったようである。清代の章学誠は,儒家のいわゆる六経はもともと古代の史官の記録から起こったものだという〈六経皆史〉説を唱え,今日でも高く評価されている。この説によって考えれば,西周中期以後史官の手で作られた記録がさらに春秋末期以後儒家によって方向づけられ六経となったようである。六経のうち《詩経》は祖先の功業をたたえ族人の和合を楽しむ氏族社会の歌謡を源泉とし,《書経》は西周創業期の誥(みことのり)を中心として尭舜から先秦に至る王朝史の体系を構成し,《礼経》(儀礼・礼記・周礼)は西周の氏族儀礼と国制を基準として大同思想に基づく時代観を展開し,《易経》は日常の占筮法から出発して陰陽二元論による宇宙論的運動法則を導き出した。さらに《春秋》は魯国の年代記に基づきつつ,列国・個人の行為を伝統的なルール(礼)に照らして記述する。このように六経はそれぞれの局面において史書的性格を備えており,各時代の体系的な把握,社会変化に関する理論,万物の運行に関する形而上学,生起する事実の叙述方法と,自覚的歴史への必要条件はここにほぼ完全に出そろっている。
このように歴史の世界が開かれた契機は,西周初期の時代に対する後人の思慕とその理想化にあったと思われる(尚古思想)。輝かしい西周創業期と衰退に向かう現在との距離感が歴史に対する自覚を強く呼び起こしたと考えられる。六経によってうかがわれる当時の歴史観は,神秘主義的要素は希薄で,むしろ人間の徳のはたらきを重視する。これは呪術的であった殷人に比して開明さを増した周人の世界観と関係がある。周人によれば周王朝は天命を受けた有徳の王たちによって打ち立てられた。これを起点として考えれば,人類文明そのものもまた十全の徳を備えた聖王によって創造されたことになる。一方,不徳の王の出現は,必然的に王朝の交替に帰結し,諸王朝の連鎖が徳と不徳の抗争によって説明されうる。このように歴史が徳すなわち人格によって作られるという観念は,歴史を為政者の道徳的実践とみなすことにつながる(徳治主義)。一方,徳の根拠は天命にあるから,歴史と宇宙の摂理との間には密接な相関関係が横たわっている。歴史を道の両義(道徳と天道)においてとらえることは,以後中国人の歴史観を貫く根本原理となった。
史書の発生
殷周時代には日本の語り部に似た巫や瞽(盲人楽師)と呼ばれる伝誦者があった。一方,文字の発達は記録官たる〈史〉を生んだ。史()の字義には諸説があるが,一説では〈中〉(祝詞を収めた器)を〈又〉(手)でささげた姿であるとする。文字は本来天(神)と人との通交手段であるから,その記録をつかさどる〈史〉が聖職者から出たことは疑いえないであろう。そこから行政官その他に分化し,《周礼》には大史・小史・内史・外史・御史の5職があり,他書にもさまざまの史官の名がみえる。簡策をつかさどる記録官としての〈史〉もその一つとして発達した。儒家も聖職者から出た可能性があり,史から儒へという推移はこの面からも考えられる。六経のうち《春秋》は年中行事を記した暦を起源とするが,周王朝の体制が崩れていく春秋以後,史官が新しく発生した事件を記録して年代記となったもので,列国にそれぞれの名称で行われたものの一つを儒家の手で整理したものである。史実を時間の進行に従ってありのままに書き記すという史書の基本精神がここに備わってきたが,記述が簡単すぎて史書としてはまだ十分成熟していない。これを補足解釈する《左氏伝》などの伝文は,儒家のイデオロギーが濃厚に表れている。
《春秋》の基本精神を継承しつつ,史書の地歩を確立したのが司馬遷の《史記》であった。司馬氏は代々史官を務め,司馬遷もまたその家学を継ぎ,六経を含む伝承・記録を集大成した。時間的には文明の起源から彼の生きる現在まで,空間的には当時知られた世界の果てまでを総合し,そしてこの時空を生きた人間の典型のすべてを描いた《史記》は,経書や諸子の宗派的な範囲を完全に乗り越えた一個の世界史である。しかし《史記》の記述は決して没価値的になされているのでなく,史実の記述がそのまま一定の価値を指向する。その手法は史官の伝統に発し,《春秋》の精神を受け継ぐものであり,さらに《史記》以後の歴史撰述に継承されていった。司馬遷の考案した紀伝体は《春秋》などの編年体に比して一歩進んだ叙述方法であり,国家の動向とそれにかかわる個人の運命とをそれぞれのレベルで書き分けることのできる,世界にも類例のないスタイルである。《史記》以後の各正史は,紀伝体によって歴代の王朝史を多面的に描いた。日々生起する事件は人びとの価値ある実践であり,また人間世界の価値は事実を述べることによって顕彰されるという中国独特の歴史観が,歴代王朝の正史編纂事業を間断なく持続させ,二十四史という驚くべき修史の大系を生み出した。しかしその一面で正史編纂が惰性に陥る傾向もなしとせず,史館を設けて修史官の分担編集にゆだねた唐代以後の正史はとくにこの傾向が強い。
図書分類のうえでも史書は独立した地位を獲得するに至った(四部分類)。漢代には経部・春秋類に分類されていた史書は,曲折を経て隋代には経部から独立して史部を構成するようになった(経・史・子・集)。《隋書》経籍志によって史部の書の包括する範囲を示せば,正史,古史,雑史,覇史,起居注,旧事,職官,儀注,刑法,雑伝,地理,譜系,簿録と,きわめて多様な分野に広がり,当時における史書の発展の模様をうかがうことができる。
史学の発達
史書が独自の分野を占めていくにつれ,これをどう読むか,また史書をどう書くかという問題が生まれ,歴史に関する学問が形成された。前者は経書における訓詁学と対応しており,最も著名な例は唐の顔師古の《漢書》の注である。顔氏の注のような語句解釈の注のほかに,南朝宋の裴松之による《三国志》注のように,本文を補足するための注(補注)も作られた。日々の事件や実践を収載した史書は後世の人にとって故事を知るための必読文献となり,南朝では玄学,儒学,文学と並んで史学が士大夫必須の学問とされた。ただ,同じ故事でも時代によって観点が異なり,南北朝時代の正史は,官府の慣行や貴族の家譜に関する事がらに重点があるが,宋以後になると,《資治通鑑》に代表されるように,大義名分の見地から取り上げる。歴史をどう書くかという問題は,史評すなわち史書に対する批評の学,という新しいジャンルを生んだ。唐代の劉知幾の《史通》がその最初の専論であり,章学誠の《文史通義》はさらに一歩を進めて歴史とは何かを論じた歴史哲学の書である。《文史通義》は歴史家の主体的態度を重んじ,史実の記述が道の探究へ帰結すべきことを説いて,《春秋》以来の最もオーソドックスな立場を宣揚する。それは当時盛行した考証学の客観主義への批判でもあった。しかし清朝考証学も司馬遷以来の長い学問的伝統のうえに築かれたものであった。たとえば北宋の司馬光が膨大な史料を取捨選択して編修した《資治通鑑》は,その副産物として《資治通鑑考異》という考証過程を述べた書物を生んでいる。近代歴史学にも擬すべき新しい潮流がとくに宋代以後に起こり,清朝乾隆・嘉慶時代には考証史学の全盛をもたらした。当時を代表する者は,銭大昕,王鳴盛,趙翼らである。
近代歴史学への進展
清朝考証学は中国における近代歴史学の発展に計り知れない役割を果たした。〈徴(証拠)無くんば信ぜず〉という考証学の原則をつきつめていくと,その根底にある儒教的理念を自ら疑う結果となる。崔述(1740-1816)の《考信録》は儒家の一部の経典に依拠して他の経書および諸子百家に史料批判を加えた。清末の政治改革家康有為は,崔述に一歩を進めて,儒家経典に記載する黄帝・尭舜・夏殷周三代の歴史は事実そのものでなく,孔子がその理想世界を述べるためのフィクションであったと主張した(《孔子改制考》)。元来中国人の歴史観は,《礼記》の大同思想にうかがわれるように,一種の下降史観であった。もっともその下降も一直線に進むのでなく,孟子が言うように〈一治一乱〉(滕文公),すなわち治と乱を交互に織りなしつつ進行する。そこには一面未来への強い期待がある。《春秋》解釈の一学派である公羊学(くようがく)にはとくにこの傾向が強く,乱世から升平へ,さらに太平へという,未来に向かって上昇する三世思想がある。公羊学は清末政治改革を志す者の間で行われた。その一人であった康有為は,公羊学の上昇史観を基礎とし,それに《礼記》の大同思想を結び合わせて,黄帝・尭舜・三代の理念は未来に到来すべき共和制社会を予言するものだと主張した(《大同書》)。
清帝国の崩壊,中華民国の樹立は,ヨーロッパ思想の流入を拡大し,歴史思想と歴史学に強い影響をもたらした。ことに新文化運動における科学と民主のスローガンは,儒教思想の徹底的排撃を通じて,科学的歴史学を志向した。その一つの流れが,J.デューイの影響を受けた胡適とその弟子顧頡剛らである。顧頡剛は史料批判により伝統的古代史を後人の偽作だとしてその実在を疑い,疑古派と目される一派を形成した。しかしその一方で,種々の考古学的発見は新しい古代史の構築を迫った。ことに甲骨文の発見・解読が清朝考証学の素養をもつ守旧的学者羅振玉,王国維らのいわゆる釈古派によって進められた。既成の古代史像の破壊と新しいそれの構築とが,新旧二つの流れからそれぞれ企てられ,それらの成果を史的唯物論の立場から体系化を試みたのが郭沫若らであった。これに対し陶希聖らは,理論より史料をと主張し,郭沫若らとの間にいわゆる中国社会史論戦を展開した。1930年代は禹貢学会,食貨学会などの学会が設立され,多様な成果が発表された。郭沫若らの研究方向は,中華人民共和国における史学の源流となっている。しかし,今日の歴史意識にも伝統的な発想が残っていないわけではない。文化大革命の時期によくみられたように,過去の事件や人物に対する評価が往々にして現在の政治的立場と直接に結びつけられる場合がある。それは歴史が一回限りのものでなく,古今に通ずる普遍的意味をもつ故事として理解されているためであろう。
→中国学 →東洋史学
執筆者:谷川 道雄
インド
歴史意識
インド研究者は,しばしば〈史書なきインド〉という言葉を使い,古代のインド人の歴史意識の欠如を嘆いてきた。たしかに古代のインド人は,同時代のギリシアや中国で書かれた史書のような,史実を平易な文体で正確に記述した作品を,後世にほとんど伝えていない。その理由としてこれまで一般に挙げられてきたのが彼らの生命観・世界観であり,そこでは,(1)インド人は個人の生命を永遠に輪廻転生を繰り返す霊魂のごく一時的な存在としてしかみなかった。(2)現実世界に発生する政治や社会のできごともまた一時的現象とされ,なんらの重要性ももたぬものと考えられた。(3)彼らの関心は転変きわまりない現実世界の背後に存在する絶対者・普遍者に向けられていた,などの点が指摘されている。
こうした現実軽視は,たしかに古代のインド人が残した膨大な宗教文献のなかに認められる。しかし,インド人は現実に背を向けてきたわけではない。彼らが〈実利(アルタartha)〉と〈愛欲(カーマkāma)〉を〈法(ダルマdharma)〉〈解脱(モークシャmokṣa)〉と並ぶ人生の目的として掲げていたことはよく知られている。また王侯が刻ませた碑文には,歴年,王家の系譜,場所,事件などが具体的に記されており,彼らが〈過去〉〈現在〉に強い関心をもっていたことがわかる。バラモンやクシャトリヤの家には,古代の聖人や英雄にまでさかのぼる系譜が伝えられており,また王朝の役人たちは行政,徴税,外交に関する文書を常に作成していた。さらに古代のインド人は,文章表現において際だった才能を発揮している。しかし彼らは,現実と空想をはっきり区別しない独自の歴史観に立って過去を叙述することに終始し,史書と呼びうる作品をほとんど後世に伝えなかった。文献の多くが宗教至上主義に立つバラモン階級の手で書かれ伝えられてきたことも,史書欠如の一因として考えられる。
循環説
輪廻転生の生命観をもった古代のインド人は,宇宙も同様に生成と消滅を繰り返すものとみていた。すなわち,宇宙の大生成から大消滅に至る一周期のなかに,多数の中生成~中消滅の周期が含まれ,この中周期のそれぞれのなかにはまた,多数の小生成~小消滅の周期が含まれるというのである。こうした循環説の一つによれば,小周期はクリタKṛta,トレーターTretā,ドバーパラDvāpara,カリKaliと続く四つの時代(ユガyuga)から成る。この四つのユガは生成・繁栄から衰退・消滅に向かう一連の期間とみられており,現在は前3102年に始まるカリ・ユガ(最悪時代)に属する。やがて世界は消滅し,空白期間を経たのち次の小周期のクリタ・ユガが始まるのであるという。これに似た循環説は,劫(こう)(宇宙の周期),賢劫(げんごう)(現在の劫)の説として,仏教とともに日本にも伝えられている。
歴史記述の特色
古代のインド人は,彼らなりの歴史観に立ち,過去のできごとを記述してきた。ヒンドゥー教徒の伝えるプラーナ文献(古伝承の集成)には,太古の時代からグプタ朝成立に至る各時代の王朝史が簡潔に記されており,また二大叙事詩《マハーバーラタ》と《ラーマーヤナ》も古代の事件を語り伝えることを目的として編まれたものである。仏教徒やジャイナ教徒の間には,それぞれの宗教の歴史や,始祖に始まる長老の系譜が伝えられている。スリランカに伝わる《ディーパバンサ(島史)》と《マハーバンサ(大史)》は,釈迦の時代から4世紀に至るこの島の仏教史と政治史を編年史的に記したものであり,カルハナが著した《ラージャタランギニー》は,古伝承,古写本,碑文などの諸資料を駆使して書かれたカシミールの王統史である。仏教徒の間に伝わるアショーカ王伝説や,7世紀の宮廷詩人バーナBāṇaの《ハルシャチャリタ(ハルシャ王一代記)》のような,偉人伝も書かれている。
これらの諸作品が,過去・現在のできごとを後世に伝えようという熱意の所産であることはいうまでもない。しかし歴史学の立場からみれば,ほとんどの作品が〈史書〉に必要な諸条件を満たしていない。すなわち,史実と伝説,現実と空想が区別されておらず,数字や人間の行動がいかに現実離れしていようと問題にされない。著者の関心はしばしば,史実を伝えることよりサンスクリットの韻文を技巧をこらして綴ることに向けられている。史書に最も近いといわれる《ラージャタランギニー》にしても,その内容は,カルハナの時代をさかのぼるにつれしだいに伝説の霧に包まれていく。
さらにインドの古文献の多くは,成立地と成立年代があいまいであり,ひとたび成立した作品にも,後世の手が加えられることが多い。作者の名が伝えられていない作品もあり,また伝えられる作者の名が想像上の人名であったりする。たとえば《マハーバーラタ》の主題は前9世紀ころのバラタ族の内紛であるが,後世しだいに増補の手が加えられ,4世紀ころ10万詩句から成る今日の作品となった。作者とされるビヤーサは伝説上の聖人である。
中世以後
13世紀以後になると,ムスリム王朝のもとで,史書の名に値する作品がペルシア語で著されるようになる。アクバル時代の歴史を記したアブール・ファズルの《アクバル・ナーマ》,アクバル時代の三大史家が著したインドにおけるムスリム支配の歴史《タバカーテ・アクバリー》(ニザームッディーン・アフマド著),《ターリーヘ・バダーウーニー》(バダーウーニー著),《ターリーヘ・フィリシュタ》(フィリシュタ著)などが代表作として知られる。また植民地時代に入ると,ヨーロッパの歴史研究法が伝わり,史書の編纂や歴史研究が行われるようになる。
執筆者:山崎 元一
イスラム
初期イスラムのあらゆる学問と同じく,イスラム史学発祥の地もアラビア半島のメディナと南イラクの二つの軍営都市(ミスル),バスラとクーファとであった。メディナは預言者ムハンマドとその教友(サハーバ)の,軍営都市はアラブ部族民の伝統を受け継ぎ,両伝統の融合と,アラビア語に翻訳された半ば伝説的なイランの帝王史《フダーイ・ナーマ》の影響のもとに,語の厳密な意味におけるイスラム史学は成立した。
歴史叙述アフバールの誕生
前イスラム時代のアラブの伝承には,部族同士の戦いの伝承アイヤームayyāmと部族の系譜アンサーブanṣābとがあった。メディナにおいてアイヤームはムハンマドの戦いの記録マガージーmaghāzīへと発展し,それはイブン・イスハークによって預言者の伝記シーラsīraへと発展させられた。軍営都市の部族民はそれぞれの部族のアイヤームとアンサーブのほかに,大征服における祖先の功績を氏族・家族ごとに語り伝えていた。8世紀の後半から,これらの伝承の収集と記録が行われ,新形式の歴史叙述アフバールakhbārが始められた。このことは,イスラム教徒の関心がムハンマド伝だけにとどまらず,その後の教徒の発展と共同の経験とに向けられたことを示すが,シーラの史家ワーキディーはアフバールを利用して,ムハンマド没後のアラブ部族の離反や大征服史をも著し,メディナ学派とイラク学派の伝統の融合に道を開いた。
アッバース朝の最盛期であった9世紀にイスラム教徒の歴史意識は高まり,《フダーイ・ナーマ》およびシュウービーヤ運動の影響もあって,新しい総合的歴史叙述が生み出された。その最初のものはバラーズリーの《諸国征服史》であり,引き続きヤークービー,ディーナワリー,タバリーによって世界史の年代記が著された。とくにタバリーの《預言者と諸王の歴史》は神学的歴史観によって貫かれ,その後の年代記の模範となった。ヤークービーには《諸国誌》の著もあって地理学への関心も深く,彼は歴史と地理とを相互関連のもとに考案した最初の学者である。このような傾向は,のちマスウーディーおよびビールーニーによっていっそう発展させられた(地誌)。ギリシア語の史書がアラビア語に翻訳された事例はないが,時間と空間との両軸において未知の広い世界を探ろうとする試みは,明らかにギリシア的精神を継承する。マスウーディーも歴史についての抽象的な考察を行っているが,一歩進めて歴史発展の法則性を探ろうとしたのがイブン・ハルドゥーンで,大著《歴史序説》を残した彼は前近代における世界で最も独創的な歴史家といわれる。
伝記と年代記の伝統
他方イスラム教徒は,預言者ムハンマドの範例・慣行(スンナ)をその伝承(ハディース)の研究を通じて知ろうとした。このようなハディース学の最も重要な部分は伝承過程の記録イスナードの吟味にあるが,そのためにはハディースの伝承に関係のあったすべての人の,住んでいた場所と年代とが明らかにされなければならない。イブン・サードはこのような目的をもって初期イスラム教徒の伝記集《タバカート(大伝記集)》を著し,イスラム史学独特の伝記集タバカートの伝統を開いた。生き生きした人物描写に欠けるとの評はあるものの,カーディー(裁判官),法学者,スーフィー,文学者,医学者など特定分野の専門伝記のほかに総合的な人名事典も編まれ,伝記はイスラム史学の重要な一部門を占める。世界史への関心と並んで著者自身に身近な地方史への関心も,9世紀には始まった。現存する最古の地方史はイブン・アブド・アルハカムの《エジプト征服とその情報(エジプト,マグリブ征服史)》で,その後,都市・州単位で多くの地方史が著されたが,その圧巻はマクリージーの《地誌》であろう。これらの地方史は,年代記的世界史にみられないきめ細かな情報を伝える点で重要な史料的価値をもつ。ちなみにハティーブ・アルバグダーディーal-Khaṭīb al-Baghdādī(1002-71)の《バグダード史》やイブン・アサーキルの《ダマスクス史》などは,歴史と称するものの実際の内容はその地で活躍した名士たちの伝記集である。また,イスラム帝国の分裂とマムルークなどの軍人が軍事・行政・財政に関する全権限をカリフに代わって行使する武家政治を経験した11世紀に,多く廷臣または官僚の手になる同時代史年代記が出現した。その代表作がミスカワイフの《諸民族の経験》で,巻頭に世界史のレジュメを付し,神学的歴史観とは無縁で,支配者の興亡をさめた冷静な筆致で記述する。しかし支配者自身が執筆を命じた王朝史やみずからの伝記の類は内容が空疎で,ただ美文のためだけで有名なものが少なくない。
年代記的世界史の伝統は13世紀に復活された。これを代表するものにイブン・アルアシールの《完史》とザハビーal-Dhahabī(1274-1348)の《イスラム史》とがあり,それぞれ伝統的なイスラム教徒の年代記に新機軸を開いた。その後のアラビア語史書は主として地方史と伝記に集中し,とくにエジプトと西方イスラム世界で多くの傑作が著された。ペルシア語による歴史叙述は,イル・ハーン国時代にジュワイニーとラシード・アッディーンとによって始められ,とくに後者の《集史》は世界的視野に立った本格的な世界史で,文字通りペルシア史学を確立させるとともに,その後のペルシア語による歴史叙述の模範となった。
→年代記
執筆者:嶋田 襄平
無文字社会における歴史と口頭伝承
かつては歴史研究といえば,文字のある社会に限られていた。しかし,いうまでもなく文字の使用自体,人類史の全体からみれば,わずかな時代と社会に限られていた。文字をもつ社会でも,初等教育の普及までは,実際に文字を用いたのは少数の人々にすぎなかった。人類の大部分を占める文字を用いなかった人々も歴史を生きてきたのだし,文字記録は過去を理解するきわめて重要な手がかりを与えてくれるが,それが歴史を知る手段のすべてではない。考古学的遺物をはじめ,建造物,図像,道具など,物として過去を伝えている資料のほか,口頭で伝えられてきたことば,いわゆる口頭伝承(口承文芸)は,人間の過去の営みやそれに対する人々の意識を知る貴重な資料である。19世紀以降ヨーロッパ,次いで日本での民俗学の勃興とともに,まず文字をもつ社会内部での口頭伝承の史料としての意義が認識されるようになった。しかし,文献批判と絶対年代の決定に重きをおく文献史学の主流からは,口頭伝承は史料的価値の低いものとされ,せいぜい,民俗学研究と重なり合う地方史研究の補助資料の位置を与えられてきたにすぎない。
第2次大戦後,植民地の独立に伴って,〈未開〉社会の概念が再検討を迫られ,文字をもたず,かつては歴史がないとみなされてきた多くの社会(無文字社会)の過去を探究する作業が,民族学,文化人類学の領域で盛んに行われるようになった。それ以前からの考古学,比較民族学的調査研究に加えて,口頭伝承の採録,分析が重視されるようになった。なかでもサハラ以南の黒人アフリカは,文字をもたず,歴史のない暗黒大陸とみなされてきたが,そこはまた口頭伝承の宝庫でもあり(〈口承文芸〉[アフリカ]の項を参照),方法論の精密化とともに過去の王国の構造,長距離交易の様相などが明らかにされつつある。これについては〈アフリカ〉[歴史]の項を参照されたい。
一般的にいって,史料のあり方,つまり時間を隔てたメッセージの伝わり方には,二つの方向を区別できる。一つは,メッセージを担っている媒体が堅牢で,不変のまま時を経る伝わり方であり,エジプトのピラミッドにその典型をみることができる。他の一つは,媒体そのものは時を経て遺存しにくいが,同じメッセージを新しい媒体に移し替えていくことによって伝えるやり方である。ピラミッドとの対比でいえば,日本の伊勢神宮の遷宮はそのよい例である。白木造の建造物は石より朽ちやすいが,同型のものを20年ごとに更新していくことによって,原理的にはむしろ一度造られたきりの石の建造物より長く原初のメッセージを後世に伝えられるだろう。口頭伝承は後者の極限をなしているといえる。つまり,メッセージを担う媒体である人間は,その個体の一生という短い時間しか存続しないが,メッセージは次の世代の人間に伝えられることによって,その人間集団が消滅しない限り伝えられ続けるからだ。主として紙に書かれた文字記録は,ピラミッドと口頭伝承の中間に位置している。紙は人間の一生より一般に持続性が大きいが,筆写を行わなければ著しく長い時間を経ての伝達は期待できないし,火事,腐食その他の破損によってメッセージが失われやすい。しかしこの場合も,滅びやすい媒体による反復継承の方が長い伝達に耐えることがあり,風化して判読できなくなった石碑の文字が,紙に筆写された資料を通して後世に伝えられた例もある。
文字のない社会で口頭伝承を史料として用いる場合,文字史料との対比でまず問題になるのは,できごととの同時代性である。文字史料も筆写の過程での意図的・無意図的歪曲や改変の可能性があるが,文献批判によってチェックすることがある程度可能である。口頭伝承においては,メッセージは常に現在に集約されており,伝承の過程での変化や再解釈をこえて,もとのメッセージにたちかえって参照することが不可能である。ただ,同一伝承群の異伝と伝承の背景を詳細に比較検討することによって,変化の過程や変化の意味を後づけることが可能になる場合もある。
同時代性を重視する文献史料中心の歴史研究は,絶対年代の時系列に沿った過去の把握に執着しがちだが,口頭伝承に表明されているのは,それを伝承してきた社会の成員の,生きられた過去に対する集合的意識であり,その批判的検討から明らかにしうるものも,絶対時間のしるしを欠いた〈変遷〉であることが多い。しかし,日食などのように生起の時点をさかのぼって算出できる自然現象との関連から絶対時代を定められることもあるし,他の史料から年代の明らかな事件とのつながりを求めることも可能である。
口頭伝承を史料として取り上げるとき,伝承者の社会的位置,伝承の閉鎖性(秘儀性)と開放性,権力者との結びつき,伝承されることばの定型性,韻律性,楽器演奏や身ぶりなどの身体運動を伴うかどうか(ことばに伴う身体運動がことばの記憶喚起を容易にする側面)などが注意されなければならない。それらは過去との関係での伝承のあり方,伝承の固定性を検討するうえで重要だからである。
口頭伝承の歴史性とそれをもつ社会の性格の関係についてみると,一般に平等な同型の単位から構成されている社会(いわゆる環節的社会)よりは,集権化された政治組織をもつ社会の方が,社会構造からしてもできごとを生み出しやすく,できごとによってしるしづけられた過去を解釈するために,歴史性を帯びた口頭伝承を生む契機をより多く含んでいるといえる。前者の型の社会では,成員の生活は季節のサイクルや個人の一生のサイクルという循環的時間のなかで営まれ,社会集団ないしは世の始まりから現在までが,線的に継起する時系列のできごとで埋められていない。これに対して,後者の型の社会では,権力者の支配の由来,外敵との戦いや内部抗争,権力者の交替などが,非循環的な展開として語られやすい。その場合,権力者に依存する語り部などの伝承者集団によって伝承が保持されてきた場合には,伝承の内容は支配を正当化するための過去の解釈という,イデオロギー性を強く帯びることになる。しかし集権化された政治社会のなかでも,一般民は村落レベルでむしろ循環的時間を生きていて,系譜伝承も深くさかのぼりえないことが多い。
執筆者:川田 順造