西条庄(読み)さいじようのしよう

日本歴史地名大系 「西条庄」の解説

西条庄
さいじようのしよう

石鎚いしづち山系の北麓、加茂かも川を挟んで東西に連なる海岸平野に立地。「和名抄」にみえる新居にい郡内の賀茂かも嶋山しまやま神戸かんべの各郷にまたがっていたとみられる。「予陽河野家譜」建保六年(一二一八)の条には、河野通信が鎌倉幕府から「守護職新居西条庄」を与えられたとある。

永仁四年(一二九六)から徳治元年(一三〇六)の間と推定される覚園寺文書の智海心慧披露状案には、

<資料は省略されています>

とあって、当荘内八ヵ村のうち末久・菊一・久など四ヵ村が遍照心院領、得重・得恒・福武・稲満の四ヵ村が覚園寺領であった。元応二年(一三二〇)一〇月七日の六波羅施行状(覚園寺文書)では、幕府の命令で「覚園寺領新(居)西条庄」内の殺生を禁じている。鎌倉幕府滅亡後も、建武元年(一三三四)八月五日の後醍醐天皇綸旨(同文書)に「伊予国新居西条庄内得重・得恒・福武・稲満等四ケ村、為相摸国覚園寺領、知行不可有相違之由、天気所候也」とあり、荘内四ヵ村が引き続き覚園寺に安堵されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報