伊予(読み)いよ

精選版 日本国語大辞典 「伊予」の意味・読み・例文・類語

いよ【伊予】

[1] (道後温泉にちなんだ「いゆ」(「い」は発語、「ゆ」は湯)から転じたといわれる)
[一] 南海道諸国の一つ。古くは伊余・伊与・夷与にもつくる。五国造の領域を合わせて成立。平安初期には十四郡から構成された(和名抄)。中世には、佐々木、宇都宮、細川、河野氏などが守護となり、天正一二年(一五八四)長宗我部氏が統一、翌年の豊臣秀吉の四国平定後、小早川氏の支配となった。江戸時代には、松山宇和島今治など八藩が分立廃藩置県により、愛媛県となる。予州
[二] 愛媛県松山平野の南西部の市。全国一の花がつおの生産地。昭和三〇年(一九五五市制
[2] 〘名〙
① 「いよかん(伊予柑)」の略。
② 「いよすだれ(伊予簾)①」の略。

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デジタル大辞泉 「伊予」の意味・読み・例文・類語

いよ【伊予】

旧国名の一。現在の愛媛県にあたる。予州。
愛媛県中部の市。伊予灘に面し、花がつおの産地。ミカン生産も盛ん。人口3.8万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「伊予」の意味・わかりやすい解説

伊予[市] (いよ)

愛媛県中央部の市。2005年4月旧比伊予市と中山(なかやま)町,双海(ふたみ)町が合体して成立した。人口3万8017(2010)。

伊予市北部の旧市。松山平野の南西端に位置する。1955年郡中町と南伊予,北山崎,南山崎の3村が合体して市制,改称。人口3万0547(2000)。市街の中心地郡中は近世には牛子ヶ原とよばれた海沿いの原野であったが,1636年(寛永13)上灘出身の宮内兄弟によって開発され,大洲藩の在町として発展した。1896年松山市から伊予鉄道郡中線が延び,1930年予讃本線(現,JR予讃線)が通じて県都松山との結合が強まった。1905年背後の犬寄(いぬよせ)峠に馬車道が貫通し,15年掘込み式の港湾郡中港が大阪航路の寄港地となった。明治末年から大正年間にかけては,背後の山間地の物資集散地として栄えた。現在の主産業は全国一の生産を誇る花鰹,削り節の生産と周辺の山麓で生産されるミカンである。近年松山市への通勤者が増加し,市域の一部は松山のベッドタウンになっている。松山自動車道のインターチェンジがある。
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伊予市南東部の旧町。旧伊予郡所属。人口4541(2000)。肱(ひじ)川の支流中山川の上流域にあり,石鎚連峰の階上(はじかみ)山(899m),秦皇山(874m),黒岩岳(699m)が中央部に連なり,町域の大部分が山地である。中心集落の中山は,近世には大洲城下と郡中を結ぶ大洲街道の馬継場で,町場が形成されていた。名産の栗は〈中山栗〉とよばれ,江戸時代から知られていた。近年はミカン,タバコ,シイタケの栽培も盛ん。養豚を中心とした畜産も行われる。佐礼谷(されだに)には木曾義仲の妻山吹御前を葬ったと伝える墓がある。戦国期の山城跡も残り,いずれも土佐の長宗我部氏によって落城したという。中山川の河床には鉱泉が噴出する。JR予讃線,国道56号線が通じる。

伊予市南西部の旧町。旧伊予郡所属。人口5417(2000)。伊予灘に面した細長い町で,海岸には断層崖が迫り,南には四国山地の支脈の標高700~900m級の山が連なる。流路の短い多数の小河川が伊予灘に注ぐが,犬寄峠に源を発して西流する上灘川に沿って低地が開ける。同川河口の上灘ではかつて晒蠟(さらしろう)や炭の生産,養蚕が盛んであったが,現在は山地斜面を利用したかんきつ類の栽培が行われる。上灘の小網ではきんちゃく網漁,下灘の串を中心として底引網漁が行われ,イワシ,タイなどが水揚げされる。上灘川河口右岸の本尊(ほぞん)山(187m)には,中世,河野氏の西の拠点であった由並本尊(ゆなみほぞん)城があった。内子町との境にある牛ノ峰(896m)の西方には地蔵堂がある。海岸に沿って予讃線と国道378号線が並走する。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊予」の解説

伊予 いよ

見性院(けんしょういん)(3)

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