知恵蔵 「貴ノ浪貞博」の解説
貴ノ浪貞博
中学時代に故藤島親方(元大関貴ノ花)からスカウトされ、87年3月の春場所、しこ名を本名の「浪岡」として初土俵を踏んだ。91年の春場所で十両に昇進し、しこ名を「貴ノ浪」に変更。同11月の九州場所で新入幕を果たして力を伸ばし、94年1月の初場所後、同じ71年生まれで同時に幕内力士となった武蔵丸(元横綱、現武蔵川親方)と共に大関に昇進した。大関在位は37場所で、2015年6月時点で史上7位。
初優勝したのは1996年初場所。同部屋の横綱・貴乃花と14勝1敗で並び、優勝決定戦では、相手を自分の後ろに倒す大技「かわず掛け」で破り金星を挙げた。2度目の優勝は、97年九州場所で、この時も、貴乃花との優勝決定戦を制した。
しかし、横綱になることはできず、99年9月の秋場所で足首を痛めて途中休場、カド番となった九州場所で負け越して大関から陥落した。2000年初場所で一度は復帰したものの、再び陥落。その後も幕内で現役を続けたが、04年5月の夏場所前に心臓の不調で入院。同場所には出場したが相撲を続けられず、現役引退を表明した。年寄り「音羽山」を襲名し、貴乃花部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たったが、06年1月末に体調を崩して緊急入院。一時は心停止となったが、奇跡的に回復した。また日本相撲協会では広報などを担当し、15年2月からは審判委員を務めていた。
14年1月から体調を崩し、精密検査の結果、胃がんが見つかり手術、約3カ月の入院後に復帰した。だが15年6月20日、急性心不全のため大阪市内のホテルで倒れ、43歳で死去した。
頭の回転が速く、NHK大相撲中継の解説では冷静に取組内容を分析した。物おじしない性格で、1996年初場所では、土俵下で出番を待つ際に審判委員よりも早く物言いをつけたこともあった。
人望があり、これからの活躍を期待されていただけに、早すぎる死は多くの人に惜しまれた。師匠の貴乃花親方は葬儀・告別式で「思いもよらぬ出来事でした。遺志を引き継いでいきます」と無念さを表明。現役時代は58回対戦と長年ライバル関係にあり、引退後は良い関係を築いていたという武蔵川親方は「気持ちの整理がつかない。友達が1人、いなくなってしまった」と別れを惜しんだ。
(南 文枝 ライター/2015年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報