足代庄(読み)あじろのしよう

日本歴史地名大系 「足代庄」の解説

足代庄
あじろのしよう

近世の東足代ひがしあじろ村、西足代村(現生野区)辺りを領域とした庄園。網代庄とも記す。正平五年(一三五〇)七月一一日の後村上天皇綸旨(妙心寺文書)に「河内国網代庄領家職」とみえる。この綸旨および同年一二月九日の河内国司庁宣(同文書)によって、北畠親房が当庄の領家職を知行することになったが、親房はただちに当庄を教興きようこう(現八尾市)に寄進し、祈祷料所とした(同年一二月五日付「北畠親房寄進状」同文書)。その後の延文元年(一三五六)三月一〇日の「師守記」の記事に「河内国足代庄」がみえる。当庄はいつしか北朝の手に移り、南北朝末の康暦二年(一三八〇)には、妙心寺玉鳳院が美濃国五ヵ郷の替地として当庄を寄進された(同年三月二〇日「後円融天皇綸旨」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

苦肉の策

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android