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鎌倉末・南北朝時代の公卿(くぎょう)、思想家。父は師重(もろしげ)(1270―1322)、母は左少将隆重(たかしげ)の女(むすめ)。後醍醐(ごだいご)天皇の信任厚く、南朝の中枢として活躍した。
親房の生涯はおおよそ3期に分けられる。第1期は鎌倉後期。北畠氏は、両統迭立(てつりつ)のなかで大覚寺統(だいかくじとう)に仕えてきたが、親房は後醍醐天皇に抜擢(ばってき)され、官職も32歳で父祖の最高職を抜いて大納言(だいなごん)に昇進、天皇の政治に深く参画し、吉田定房(よしださだふさ)・万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)(藤原宣房)とともに「後の三房(さんぼう)」と称された。また後醍醐天皇皇子世良(ときよし)親王(?―1330)の養育にあたったが、1330年(元徳2)親王は若死にし、親房も悲しんで出家し政界を引退した。法名宗玄(そうげん)(のち覚空(かくくう))。出家の翌1331年(元弘1)には元弘(げんこう)の変が始まり、ついで建武(けんむ)新政となるが、親房はこの政治過程では政界の表面では活躍しない。新政成立後は、長子顕家(あきいえ)の陸奥守(むつのかみ)就任により、ともに陸奥国に下り、顕家を後見して奥羽経営に尽力した。
第2期は、新政の挫折(ざせつ)とともに始まる。足利尊氏(あしかがたかうじ)の反乱軍を追って西上した顕家とともに1336年(延元1・建武3)上洛(じょうらく)し、そのまま京都にとどまってふたたび国政に携わることとなった。尊氏再挙ののち、親房の画策によって後醍醐天皇を吉野山に迎えて南朝を開き、京都の北朝・幕府と対抗した。しかし顕家の戦死などで南朝は軍事的にしだいに劣勢となり、1338年(延元3・暦応1)東国を回復すべく義良(のりよし)親王、次子顕信(あきのぶ)らと伊勢(いせ)国大湊(おおみなと)を出帆したが、途中で暴風雨にあい、親房は常陸(ひたち)国小田(おだ)城(茨城県つくば市小田)に入った。翌1339年後醍醐天皇が死去し義良親王(後村上(ごむらかみ)天皇)が践祚(せんそ)したが、親房は小田城を動くことができず、1341年(興国2・暦応4)高師冬(こうのもろふゆ)によって攻め落とされ、ついで関城(茨城県筑西(ちくせい)市)に移ったが、1343年落城。常陸での6年間の苦闘はかくて失敗したが、小田城で『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』『職原抄』を執筆した。
第3期はこれ以後の晩年である。常陸から吉野に帰った親房は、文字どおり南朝の中心となった。軍事的には楠木正行(くすのきまさつら)の戦死により吉野を失い賀名生(あのう)に移るなどさらに劣勢となったが、幕府内部も分裂して観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)となり、1351年(正平6・観応2)北朝を廃して正平(しょうへい)一統を実現し、親房は功によって准后(じゅごう)の宣を受けた。しかし親房の率いる南朝は、この政治情勢を永続させることができず、一統はたちまち破れ、親房は失意のうちに賀名生で没した。ただし没年、場所については異説がある。著書はほかに『元元集』(1337〜1338ころ)『熱田本紀』など多数がある。親房の南朝に捧(ささ)げた生涯と、『神皇正統記』の独自の神国思想、正統観は、後世の思想界にも大きな影響を与えた。
[熱田 公 2017年10月19日]
『中村直勝著『北畠親房』(1932・星野書店/『中村直勝著作集 7』所収・1978・淡交社)』▽『平泉澄監修『増補北畠親房公の研究』(1975・皇学館大学出版部)』▽『我妻建治著『神皇正統記論考』(1981・吉川弘文館)』▽『永峯清成著『北畠親房』(1983・新人物往来社)』▽『岡野友彦著『皇学館大学講演叢書82 北畠親房』(1995・皇学館大学出版部)』▽『白山芳太郎著『北畠親房の研究』増補版(1998・ぺりかん社)』▽『下川玲子著『北畠親房の儒学』(2001・ぺりかん社)』
鎌倉末~南北朝の公家。父は権大納言師重,母は藤原隆重女。1308年(延慶1)従三位,以後参議,検非違使別当,権中納言などを歴任,後醍醐天皇の信任厚く,24年(正中1)には32歳で曾祖父以来の極官権大納言を超えて大納言に任ぜられ,源氏氏長者を象徴する淳和・奨学両院別当をも兼ねた。この間天皇の第2皇子世良親王の養育を託されていたが,30年(元徳2)親王は早世し親房は出家する。これが彼の生涯で遭遇した第1の悲しむべき死であった。法名ははじめ宗玄,後に覚空。この直後元弘の乱おこり,天皇は隠岐に流されるが,親房は建武新政成立後半年たった33年(元弘3)10月,長子顕家が義良親王を奉じて陸奥に下るのに同行するまで,全く活動の跡をのこしていない。独自の政治思想から天皇専制体制を目ざす天皇と,旧来の上級貴族の合議制を是とする親房の間の路線上の相違にその原因を求める説が有力である。
その後足利尊氏の謀反によって上洛,天皇とともに吉野に入り,以後南朝の中心人物として活躍するが,38年(延元3・暦応1)5月石津の戦に顕家が戦死し,第2の死に悲しむ。〈時ヤイタラザリケン,忠孝ノ道コヽニキハマリハベリニキ,苔ノ下ニウヅモレヌモノトテハ,タダイタヅラニ名ヲノミゾトドメテシ,心ウキ世ニモハベルカナ〉。わが子の死を述べるこの一節は親房の著《神皇正統記》のもっとも感動的な場面である。なお戦死の数日前に天皇にあてられた顕家の上奏文は,天皇の政治を徹底的に批判したものだが,その論調は明らかに父親房の影響が大きい。同年7月,次子顕信とともに義良親王を奉じて東国に向かうが海上で難破し,常陸についたのは親房一人であった。この後,小田,関,大宝等の諸城に拠って東国へ南朝軍の結集につとめ,一時はかなりの成功をおさめた。この間白河の結城親朝に参加を促しつづけるために書かれた70通以上の書状が伝来しているが,これは中世史上個人から個人へあてられた書状としては最大の量であり,もし他の武士にも同様の勧誘がなされたとしたら,同時期におこなわれた《神皇正統記》《職原鈔》の執筆と相まって,親房の旺盛な執筆能力は驚くべきものがある。なお関東在陣中の39年(延元4・暦応2)後醍醐天皇は吉野に没し,親房はこの第3の死を小田城中に聞いた。政策的には隔りをもちながら,天皇個人にはつねに献身的な愛情をもちつづけていた親房の打撃は大きかった。43年(興国4・康永2)ころ関東を脱出,吉野へ還った。当時建武新政ころ活躍した南朝方の武士はほとんど亡く,親房は南朝内部の主戦派の頭目的存在となり,とくに観応の擾乱前後の幕府の分裂に乗じ52年(正平7・文和1)には京都を奪回,久しぶりに入京し北朝3上皇を捕らえて河内に送り,一方高野山に所領を寄進し顕家の冥福を祈った。准三后の宣下をうけたのもこのころと推定される。それも束の間,義詮の反撃に敗走し賀名生にもどり,翌々年62歳で死んだ。
執筆者:笠松 宏至
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(今谷明)
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1293.1.-~1354.4.17
鎌倉後期~南北朝期の公卿で,南朝の重臣。万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)・吉田定房とともに後の三房と称された。父は師重,母は左少将隆重の女。後醍醐天皇の信任あつく,1324年(正中元)父祖の例をこえ大納言任官。30年(元徳2)出家。法名宗玄,のち覚空。33年(元弘3)従一位准大臣。同年義良(のりよし)親王を奉じ長男顕家(あきいえ)とともに陸奥国に下る。35年(建武2)足利尊氏が建武政権にそむくと上洛。同年の尊氏東上で伊勢にのがれる。38年(暦応元・延元3)再度の陸奥下向を企てたが遭難し,常陸に漂着。近隣豪族に軍勢催促を行ったが失敗し,吉野に戻る。51年(観応2・正平6)の正平一統に功あって准后となるが,京都占領に失敗し吉野の賀名生(あのう)に退却。その地で没した。著書「神皇正統記」「職原抄」。
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…南北朝時代の神道書。北畠親房の編になり,8巻。1337年(延元2∥建武4),親房は伊勢国に赴いて後醍醐天皇方の勢力拡大のために奔走したが,同国滞在中に外宮の祠官度会(わたらい)家行に接して,伊勢神道の教説を学んだ。…
…為房も白河,鳥羽天皇のもとで活躍した。後三房は南北朝期の吉田定房,万里小路(までのこうじ)宣房,北畠親房。3人は後醍醐天皇の信任厚く,定房,宣房は正中の変,元弘の乱にも関与し,親房は《神皇正統記》を著し南朝の指導者として重要な位置を占めた。…
…ところが35年(建武2)11月尊氏は新政府に不満を持つ武士を組織して反旗をひるがえしたので,天皇は吉野の山深く潜幸し,下野の武士も南北両陣営に分かれて互いに争った。南朝側は北畠親房を中心に東国経営に乗り出し,親房は奥州白川の豪族結城親朝を味方につけることにより,去就の定まらない東北・関東の諸豪族を南朝側に帰服させようとした。しかし下野最大の豪族的領主小山氏は観望の態度をとり続け,親房は〈進退これきわまるものなり〉と嘆いている。…
…北畠親房が日本歴代の官制の沿革,変遷,職務内容などを記し,さらに注釈を加えた書。上下2巻。…
…南北朝時代に北畠親房が著した歴史書。3巻。…
…東を小貝川,西を鬼怒川が流れ,常陸台地が中央部に広がる。町名は南北朝時代に北畠親房が拠った関城にちなむ。幕末に武蔵国(現,神奈川県)川崎から伝えられた梨栽培が発展し,全国的な産地となっている。…
…福島県伊達郡霊山町大字大石に鎮座。北畠親房,顕家,顕信,守親をまつる。建武中興にあたり,北畠親房は長男顕家とともに陸奥守に任ぜられて,義良親王を奉じて下向,霊山に本拠を構えてその任にあたったが,足利尊氏の叛で西上,顕家の戦死後次男顕信がその子守親とともに霊山に下り,奥羽経略にあたった。…
※「北畠親房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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