足尾村(読み)あしおむら

日本歴史地名大系 「足尾村」の解説

足尾村
あしおむら

[現在地名]足尾町本山ほんざん愛宕下あたごした赤倉あかくら上間藤かみまとう深沢ふかさわ南橋なんきよう下間藤しもまとう向原むかいはら掛水かけみず赤沢あかさわ松原まつばら通洞つうどう砂畑すなはた中才なかさい遠下とおじも上の平うえのたいら田元たもと野路又のじまた渡良瀬わたらせしばさわはら切幹ぎりみき唐風呂からふろ舟石ふないし神子内みこうちうつこもり鍵金かぎがね古足尾こあしお小滝こだき銀山ぎんざん花柄はながらもち

足尾山地最北部西側、渡良瀬川源流の山間に位置。北は前日光連峰を挟み、中禅寺ちゆうぜんじ湖南岸に接し、東は足尾山地の最北部にあたり、西は上野国利根とね郡境の山、南は同国勢多せた郡境の山々が連なる。松木まつぎ川・久蔵くぞう沢・仁田元にたもと沢の三川を集めた渡良瀬川は、途中左岸に神子内川・内ノ籠川、右岸に庚申こうしん川・唐風呂川などを合せ、村域ほぼ中央を弓なりに南流する。庚申川上流には、銀山平ぎんざんだいらを経て修験の山庚申山がある。街道には久蔵沢から長平ちようへい沢をさかのぼり阿世潟あぜがた峠を経て中禅寺湖南岸に至る道(中禅寺路)、神子内川から細尾ほそお峠を経て細尾村(現日光市)に至る道(日光・足尾街道、現国道一二二号)、内ノ籠川・久良きゆうら沢を経て粕尾かすお峠に至り、上粕尾村(現粟野町)に至る道、銅山から渡良瀬川右岸に沿って南下し、利根川の上野平塚ひらづか河岸(現群馬県佐波郡境町)前島まえじま河岸(現同県新田郡尾島町)に至る銅山あかがね街道などがあった。村名の由来について、日光中禅寺に稲・粟を供えにくるネズミがいたため、勝道(一説には中禅寺城華坊)がネズミの足に紐を結び付け行先をたどったところ、山麓に集落があったので、そこを「足尾」と名付け、日光山領にしたという伝説がある。北方のしや山の尾根や庚申山・皇海すかい山などにも勝道による登山と修行の伝説があり、周辺の山は日光修験の道場であった。

〔中世〕

戦国時代と推定される一一月三〇日付の佐八某書状(佐八文書)に「日光山・あしを(旦)那衆」とみえ、佐八氏は当地の旦那職を有していたものとみられる。なお日光山常行三昧堂新造大過去帳に日光山往古社領六十六郷がみえるが、この「外ニ寄進之郷村」として足尾郷がみえ、「此郷往古中禅寺上人依大黒天告見出之云云、中禅寺御社領也」と記されている。天正一八年(一五九〇)日光山は小田原北条氏方についたため豊臣秀吉により所領を没収されたが、同年九月二〇日、秀吉は日光山寺屋敷・門前、神主・社人・寺人屋舗とともに足尾村を日光山に寄進している(「日光山領寄進状」御代々御朱印写)。一方室町後期から佐野氏の影響も受けていたらしく、鎌倉時代末に移住し、当地の開発領主といわれる足尾五姓(神山・斎藤・星野・倉沢・亀山)のうち斎藤家・神山家に伝わる文書・系図などは、佐野氏に仕えていたことを示す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報