渡良瀬川(読み)ワタラセガワ

デジタル大辞泉 「渡良瀬川」の意味・読み・例文・類語

わたらせ‐がわ〔‐がは〕【渡良瀬川】

利根川の支流の一。栃木県西部の庚申こうしん山付近に源を発し、渡良瀬遊水地を経て、茨城県古河市と埼玉県加須市の境を流れ、利根川に合流する。長さ109キロ。明治中期以後、足尾銅山の鉱毒が流入し、鉱毒事件が起こった。

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精選版 日本国語大辞典 「渡良瀬川」の意味・読み・例文・類語

わたらせ‐がわ‥がは【渡良瀬川】

  1. 利根川の支流の一つ。栃木県西部の皇海(すかい)山に発し、足尾山地の諸渓流を集め、南西流して群馬県大間々町で関東平野に出てのち、埼玉県栗橋町の付近で利根川に合流する。上流域には慶長以来足尾銅山があった。全長一〇八キロメートル。

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日本歴史地名大系 「渡良瀬川」の解説

渡良瀬川
わたらせがわ

上都賀かみつが足尾あしお町西方の庚申こうしん山北側に発する松木まつぎ川を源流とし、松木地先で久蔵くぞう沢・仁田元にたもと沢を合せて渡良瀬川となり、南西へ向きをかえ、神子内みこうち川・内篭うつのこもり川・庚申川・唐風呂からふろ川を合せて、群馬県勢多せたあずま村に入る。日光火山群の南端の火山岩帯を激流が浸食、深山幽谷の景勝をつくる。次いで氷室ひむろ(一一五四・二メートル)根本ねもと(一一九七メートル)等の栃木・群馬県境山岳地帯の西斜面と、群馬県赤城あかぎ山の東・南東斜面よりの細流を合せ、同県山田やまだ大間々おおまま町北部で流れを南東に大きくかえ、大間々扇状地を形成。桐生きりゆう市を経て再び栃木県に入り、群馬県境を足利市南部の沃野を形成しながら、北岸に小俣おまた川・名草なぐさ川・松田まつだ川などを合せて佐野市に入る。佐野市内で北岸に秋山あきやま川など、南岸に矢場やば川を合せて、下都賀郡藤岡ふじおか町内で川などを合せて、渡良瀬遊水地に流入する。同遊水地には北東から巴波うずま川・与良よら川・おもい川も合流しており、藤岡町南端から再び渡良瀬川となって南流、茨城県古河市と埼玉県北埼玉郡北川辺きたかわべ町・大利根おおとね町境で利根川に注ぐ。足尾山地に発する河川のほとんどは当川に合流しており、南岸の支流は矢場川のみである。明治三九年(一九〇六)谷中やなか遊水池造成までは、藤岡町西端を南流しており、群馬・埼玉県両県境となっていた。一級河川。流路延長一一一・七キロ、うち県内四九・八キロ。流域面積二六〇一平方キロ、うち県内一八五・七平方キロ。

渡瀬川と記されることもあり(「下野国誌」など)、また都賀・寒川さむかわ郡内では上州川ともよんだ(元禄九年「下宮一件堤出入願書」青木アイ文書)。上流が多雨地帯で、中流域から下は土砂の流出が多いため、古来から氾濫のたびに流路の変更が繰返された。現足利市付近でも、「和名抄」の郷の比定地や条里遺構から、現在南部をほぼ並行して流れる矢場川付近が奈良時代の流路と推定され、現在の流路となったのは永禄五年(一五六二)・八年の大洪水以降とされる(「足利興廃記」、年未詳八月五日「尊書状」鑁阿寺文書など)。近世でも足利・佐野付近の堤防が洪水のたびに決壊、幕府は国役普請で修築を行った。寛文年間(一六六一―七三)には徳川綱吉の上野館林入部に伴い、矢場川との合流地点が北西部へ付替えられ、木戸きど(現群馬県館林市)など五ヵ村が上野国へ編入されている。一方洪水のたびに下流の農地に沃土がもたらされることになり、洪水の翌年は沿岸では水稲が五―一〇割の収穫増となった。また冬作の麦類はまったくの無肥料で生育し、一反当り大麦三石五斗・小麦二石四―五斗の収穫があった。


渡良瀬川
わたらせがわ

栃木県北西部の上都賀かみつが足尾あしお町から北へ二〇キロほどさかのぼった日光の分水嶺となる南側の深い渓谷に源を発し、諸川を合流して同町渡良瀬で渡良瀬川となる。南流して沢入そうり(勢多郡東村)花崗岩地域で群馬県に入る。足尾山地と赤城山の間を南西へ向かったのち、山田郡大間々おおまま町の北部で大きくほぼ直角に南東へ流路を曲げ、桐生市内で桐生川を合せ、太田市と栃木県足利あしかが市、館林市と栃木県佐野さの市の間を流下、茨城県古河こが市の西、埼玉県北埼玉郡北川辺きたかわべ町の南東において利根川に注ぐ。一級河川。流路延長一〇七・八キロ、流域面積二九六五平方キロ。

上流部は日光火山系の花崗岩・石英斑岩安山岩などが多いが、中流は砂岩チャートの古生層の古い岩石が多い。中流以下には河岸段丘の発達があるが、大間々扇状地以下に土砂の流出が多かったため流路の変更もおびただしく、古来からの被害も枚挙にいとまがない。大間々扇状地の形成後、現在の桐生―足利方向の新流路へと移動してきたといわれ、それも数回にわたる結果で、奈良時代の渡良瀬川は現在の矢場やば川とされ、上野・下野両国を分ける国境の川であった。足利市街地へまわるようになったのは永禄年間(一五五八―七〇)と伝えられ、さらに矢場川は館林市西端付近より現在の渡良瀬川の南側を並行して東流し、邑楽おうら郡東端で旧渡良瀬川に合流していた。これが現在のように館林市西北部で渡良瀬川に注いだのは寛文年間(一六六一―七三)といわれる。近世には足利の南にあった猿田やえんだ河岸(現足利市)を遡航終点として、野田のだ奥戸おくど(現同上)高橋たかはし下羽田しもはねだ(現佐野市)早川田さがわだ(現館林市)などの河岸があった。


渡良瀬川
わたらせがわ

足尾あしお山地に発して現群馬県桐生市・栃木県足利市などを経て、古河に達する直前で東方からおもい川を合せ、まもなく利根川に合流して終わる。全長一〇九キロばかり。しかしこれは近世以後の姿で、中世までは古河より現在の権現堂ごんげんどう川―庄内古しようないふる川―江戸川下流の川筋を、当時の利根川とあるいは結びあるいは並行して南下し、江戸湾に注いでいた。下流は太日ふとい(おおいがわ)大井おおい川とよばれた大河であったという。庄内古川の名は中世の下河辺しもこうべ庄を貫通していたことから起こったのであろう。

古河の近くでは、北西方向から古河城のあった台地に突当り、これより南西に向きを転じて大きく蛇行し、いわゆる袋の地をつくり、やがて南下して現埼玉県北葛飾郡栗橋くりはし町へ向かって流下していた(明治一八年測量の参謀本部陸軍部測量局二万分一図)

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百科事典マイペディア 「渡良瀬川」の意味・わかりやすい解説

渡良瀬川【わたらせがわ】

利根川の支流。長さ107km,流域面積2621km2。栃木県足尾町(現・日光市)の北に発して南西流し,群馬県大間々町(現・みどり市)で向きを南東に変え,埼玉県栗橋町(現・久喜市)で利根川に合流。江戸時代には舟運の河岸が置かれ,サケ漁も行われた。灌漑(かんがい),発電などに利用されるが,上流に足尾鉱山があるため鉱山排水による水の汚染,山地の荒廃が著しく,1890年ころから鉱山側と農民が係争を続けてきた。洪水の害も多いため,1918年下流に遊水池を設け洪水調節を行う。1991年遊水池をさらに掘り込んで,貯水池谷中湖が完成,都市用水を供給している。
→関連項目足尾[町]足尾鉱毒事件足利[市]石橋[町]板倉[町]太田[市]大平[町]大間々[町]小山[市]関東平野北川辺[町]桐生[市]葛生[町]古河[市]国分寺[町]佐野[市]館林[市]栃木[市]利根川新田[町]藤岡[町]藪塚本町[町]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「渡良瀬川」の意味・わかりやすい解説

渡良瀬川
わたらせがわ

栃木、群馬、茨城、埼玉の各県を流れる、利根川(とねがわ)の支流。栃木県日光(にっこう)市の皇海(すかい)山と、庚申(こうしん)山の間の山中に源を発し、仁田元沢(にたもとさわ)、久蔵沢(くぞうさわ)、神子内(みこうち)川を合し、渡良瀬からほぼ南西に流路をとり、大間々(おおまま)から平野に出るとともに南東方向に転じ、群馬県桐生(きりゅう)市、栃木県足利(あしかが)市、佐野市などの機業地帯を流れ、渡良瀬遊水地(渡良瀬遊水池とも)を経て茨城県古河(こが)市(東岸)、埼玉県加須(かぞ)市(西岸)で利根川に合流する。全流域面積約2621平方キロメートル、流路長107キロメートル。上流右岸側の備前楯(びぜんたて)山に銅鉱床を胚胎(はいたい)し、これを利用した足尾銅山が開かれ、1907年(明治40)には旧足尾町人口3万4000余を数えた。粗銅産出量は1917年(大正6)の約1万6000トン弱をピークにして、その後品位の低下が続き、1973年(昭和48)閉山した。明治時代の民営移管後、煙害と鉱毒問題が流域の住民との間に起こり、田中正造(しょうぞう)の運動にもかかわらず、谷中(やなか)村が廃村となった。

 上流は発電と鉱業用水に利用される。群馬県東(あずま)村(現、みどり市)に1976年竣工(しゅんこう)した草木ダム(くさきだむ)は、水資源開発公団(現、水資源機構)により利根川総合開発事業の一環として築造された洪水調節、灌漑(かんがい)、発電、上水・工水用の多目的ダムである。有効貯水量5050万トンの重力式コンクリートダム。かつて下流部は洪水常襲地であった。明治時代11回の洪水に襲われ、1906年の洪水はもっとも激しく、足利郡においては死傷者63人、全壊家屋193戸であった。洪水に対する防御として水塚(みつか)がつくられ、軒下などに避難用の舟をつり下げるなどのさまざまのくふうが凝らされた。しかし、ダム築造により洪水は激減し、水塚は壊されつつある。河川の環境基準は上流がA、中流がB、下流がC類型に指定されている。下流部、栃木県栃木市藤岡町地区を中心に面積約33平方キロメートル、貯水容量約2億立方メートルの渡良瀬遊水池があり、毎秒9400立方メートルの洪水を調節する。遊水池の一部をさらに掘り込んでここに水を蓄え、東京都ほか4県に毎秒2.5立方メートルの都市用水を供給する渡良瀬貯水池の建設が建設省(現、国土交通省)直轄工事として進められ、おおむね完成した。

[平山光衛]


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改訂新版 世界大百科事典 「渡良瀬川」の意味・わかりやすい解説

渡良瀬川 (わたらせがわ)

利根川の支流。長さ108km。栃木県西部の皇海(すかい)山(2144m)付近に源を発し,足尾山地と赤城火山の間を流れ,群馬県みどり市の旧大間々町付近で関東平野に出,南東に流れて桐生・足利両市付近を通り,古河市南西方で利根川に合流する。上流の足尾鉱山ではとくに明治以後,大規模な銅の採鉱,精錬が行われたため,大気や水質の汚染問題が発生した。大気汚染では上流地域一帯の森林が枯死し,広い範囲にわたって草木のまったく見られない裸地となった。水質汚染では,中・下流域一帯の水田で鉱毒問題が起こった。また上流部の裸地化によって洪水が著しく増加し,その数は明治以後だけでも二十数回に及び,群馬,栃木,茨城,埼玉県下に大きな被害を与えた。とくに多くの支流の集まる栃木県の旧谷中(やなか)村,利根川の合流点付近の埼玉県加須市の旧北川辺町は洪水が多かった。旧谷中村はその後渡良瀬川遊水池となっている。
足尾鉱毒事件
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「渡良瀬川」の意味・わかりやすい解説

渡良瀬川
わたらせがわ

栃木県群馬県の県境付近を流れる川。利根川の支流。全長約 110km。日光火山群皇海山(2144m)付近に源を発し,足尾山地の小支流を集めて南西に流れ,群馬県に入る。大間々付近に扇状地をつくり,流路を南東に変え,渡良瀬遊水地(赤麻遊水地)に達し,茨城県古河市付近で利根川に注ぐ。沿岸の農業用水水道用水として利用され,両毛線,足尾線開通までは水運も盛んで,河岸の町も繁栄していた。1600年代に開発された足尾銅山に鉱毒問題が発生し,1897年には下流域住民の大規模な請願運動が起こった(→足尾鉱毒事件)。また洪水の害を緩和するため下流部に多くの遊水池が建設された。しかし 1977年,上流域に首都圏の水資源確保のための草木ダムが完成し,遊水池の必要性は小さくなった。

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世界大百科事典(旧版)内の渡良瀬川の言及

【足尾鉱毒事件】より

古河市兵衛経営の足尾銅山(現,古河機械金属株式会社)から流出する鉱毒が原因で,渡良瀬川流域の広大な農地が汚染され,明治中期から後期にかけて一大社会問題化した公害事件。今日の公害問題の特質のほとんどをそなえているため,日本の〈公害の原点〉と称される。…

【関東平野】より

… 水系は平野の中央を北西から南東に貫流する利根川が最大の流域を占める。利根川は上流部で関東山地北部および三国山脈から流出する諸川を集め,中流部で渡良瀬川,鬼怒川が合流し,沿岸に沖積地を広げながら銚子半島で海に注ぐ。渡良瀬川の下流はもとは現在の江戸川の流路をとり,利根川下流は現在の古利根川の流路をとって東京湾に注いでいたが,江戸の水害を防ぐ目的で近世初期に関宿付近を開削する土木工事が行われ,利根川は鬼怒川下流と連結された。…

【利根川】より

…坂東太郎とも呼ばれ,筑後川(筑紫二郎),吉野川(四国三郎)とともに日本三大河という。支流数は285で,おもな河川には赤谷(あかや)川,片品(かたしな)川吾妻(あがつま)川,烏(からす)川,渡良瀬(わたらせ)川鬼怒(きぬ)川小貝(こかい)川などがあり,分流として江戸川がある。
[利根川水系の成立]
 今日の利根川は発生的に,利根川と鬼怒川の合併河川とみることができる。…

※「渡良瀬川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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