朝日日本歴史人物事典 「轟武兵衛」の解説
轟武兵衛
生年:文政1.1.25(1818.3.1)
幕末維新期の尊攘派志士。名は寛胤,号は游冥,慎独軒など。一時,照幡列之助と名乗る。肥後藩(熊本県)藩士轟彦太郎の長男。林桜園に皇学を学ぶ。文久1(1861)年,真木和泉,小河一敏らと薩摩に入り,島津久光に上洛を勧めた。同2年,藩主細川護久の弟護美に従って上洛し,翌年親兵に選ばれた。8月18日の政変に際しては京都に留まったがまもなく帰藩を命ぜられ,その途次久留米で逮捕。3年間幽囚されたが,維新後許されて藩の中小姓,さらに徴士となった。その後郷里に帰り,56歳で病没。
(三澤純)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報