日本大百科全書(ニッポニカ) 「近江絹糸スト」の意味・わかりやすい解説
近江絹糸スト
おうみけんしすと
1954年(昭和29)に近江絹糸紡績株式会社(従業員1万3000人、現オーミケンシ)で起こった大ストライキ。同社は1917年(大正6)に設立され、48年(昭和23)の資本金3000万円が53年には10億円、紡績資本のトップへと急成長したが、その秘密は前近代的な労務管理にあった。54年5月に全繊維産業労働組合同盟の指導で自主的労働組合が結成され、6月3日、御用組合の解散、8時間労働制、外出の自由、仏教の強制反対、信書の開封や私物検査の停止など22項目を要求、会社が団体交渉を拒否したので、翌日から8事業所のうち5事業所で次々に無期限ストに突入した。要求の性質から世間はこれを「人権スト」とよび、組合側を支持して夏川嘉久次(かくじ)社長を非難した。争議は中央労働委員会の斡旋(あっせん)で要求のほとんどがいれられ、9月16日解決した。しかし労働協約などの団体交渉が難航し、組合はふたたび闘争を宣言したが、会社は重役陣を更迭するなど軟化、12月4日全面解決した。女子労働者を中心にした106日に及ぶこの争議は、中小企業労働者や未組織労働者に刺激を与え、証券取引所や銀行などの争議を促した。
[松尾 洋]
『青年法律家協会編『人権争議』(1955・法律文化社)』▽『全国繊維産業労働組合法政部編『近江絹絲法廷斗争記録』(1955・労働法律旬報社)』