中国,河南省の直轄市。人口80万(2000)。黄河のすぐ南,隴海(ろうかい)鉄道に沿う古い歴史をもつ大都市。すでに殷代から開発されていた中原地域に位置するが,開封の名は春秋時代,鄭(てい)の荘公が封疆(ほうきよう)を開拓する意味で作った城邑に由来する。戦国時代,秦に圧迫された魏の恵王は,前362年,都をここにうつし大梁と呼んだ。魏の富強を背景に,江淮(こうわい)地方に向けて水路が整備され,商業の中心となり,また《孟子》の梁の恵王との対話でも知られるように,斉の稷下(しよくか)(稷門)とならんで,戦国学術の一中心地ともなった。前3世紀,秦の水攻めで衰微し,この地方の中心はやや南東の陳留にうつる。漢代には陳留郡に属する浚儀県が置かれ,南北朝の混乱期には梁州,汴(べん)州の治所ともなった。隋の煬帝(ようだい)が開削した,江南を結ぶ大運河通済渠(つうさいきよ)がここを通ると一躍その重要性を増し,唐代には宣武軍節度使が置かれ781年(建中2)に城郭も整備された。唐中期以後の動乱で,長安,洛陽が荒廃し,一方,江南経済への依存度が決定的になると,運河の喉元にあたり,四方ににらみのきくここに国都を置くことが現実的にもっとも便利となる。五代の後梁,後晋,後漢,後周はすべて開封を都とし,とくに後周の世宗は955年(顕徳2),未来の統一国家の国都を夢みて,三重の城郭を建築した。これが宋に継承されるが,平原のまっただなか,黄河の河川敷にあるこの地に国都が選ばれた点に,唐から宋への変化が象徴されている。
北宋時代150年間は開封の全盛期であった。周囲それぞれ約27,11,3kmの外,内,皇城の三重の城壁に囲まれた城内は,八つの廂が管轄する120の坊に分けられていたが,坊といっても唐の長安のように封鎖的な坊壁はすでになく,開放的で自由な雰囲気が横溢していた。新しい君主独裁制を支える官僚,胥吏(しより),軍隊とその家族,各種商工業に従事する庶民で人口は100万を超えた。その生活をまかなうため,山東より五丈河,河南より蔡河,金水河,そして江南と陝西・河北をつなぐ汴河の四大運河がすべて城内に導入された。城内の街路は唐の長安のようにきちんと区画されてはいなかったが,商店,飲食店が櫛比し,夜間営業(夜市)も盛んであった。また演劇娯楽街(瓦子(がし))や妓楼,酒楼がならぶ区域もあちこちにあり,市民の消費生活の豊かさは元禄時代の江戸以上であった。その実際は孟元老の《東京夢華録(とうけいむかろく)》に鮮やかに描写されている。城内には玉清昭応宮や相国寺をはじめとした巨大な仏寺・道観が50余りも建てられ,とくに相国寺で毎月5回催される定期市には全国からあらゆる品物が集まった。宋の開封の宮城は唐の長安にくらべてはるかに小さく,主要官庁もその多くが城内外の適当な場所に散在するなど,それまでの国都がもつ政治都市の面目を一新している。なお12世紀の初め,開封の繁栄が極点に達したころには,徽宗皇帝によって内城北東部に大規模な自然動植物園艮岳(こんがく)が築かれた。
1126年(靖康1,金の天会4),女真族の金の侵入によって開封は略奪,破壊され,昔日の面影を失うことになる。金代,傀儡(かいらい)政権の劉予の斉国はここを都とし,またモンゴルに圧迫された金国自身も1215年(貞祐3)ここを一時的に都とした。元は江南江北行省の治所を置き,明代に入ると河南省布政司,清代は河南巡撫の治所というように,河南省の省都としての地位を与えられてきた。しかし元代以降,運河が東方にうつり,長い異民族支配の間に周囲の政治・経済的状況も変化して,10~12世紀の繁栄は過去のものとなった。なお,明・清時代にはしばしば南流する黄河のはんらんを防ぐため高層堅固な城壁が築かれ,また軍事的には重視された。隴海鉄道開通以後は,若干の近代工業も起こり,河南省北部の農産物の集散地となったが,中華人民共和国に入って省都が西の鄭州にうつされ,現在では,学術・文化都市としての性格を強めている。宋代の遺跡は大半は滅びたが,城外北東の高さ55mの13層八角の開宝寺(現,祐国寺)の磚塔(鉄塔)や,宋の宮城あとと伝える竜台,相国寺などが残っている。また宋代開封の運河,汴河を中心に町のありさまを描いた絵として張択端の《清明上河図》(北京故宮博物院)が名高い。
執筆者:梅原 郁
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中国河南(かなん)省北東部、黄河(こうが)右岸にある地級市。5市轄区、蘭考(らんこう)など4県を管轄する(2016年時点)。人口553万8000(2014)。隴海(ろうかい)線が東西に横切るほか、2016年開通の鄭徐高速鉄道(鄭州(ていしゅう)―徐州(じょしゅう))も通じる。河南省有数の工業都市で、開封水力発電所を基盤に、化学肥料、製薬工場をはじめ、酸素生成機械、計器工場などがあり、近代工業が発達している。汴(べん)刺しゅうや汴絹など伝統ある手工業も盛んである。
中国六大古都の一つで、戦国の魏(ぎ)以来7王朝が国都を置き、東京(とうけい)、汴梁(べんりょう)、汴京(べんけい)ともよばれた。12世紀、黄河が河道を近くに変えてから、しばしば災害をもたらし、開封は六度にわたり水没した。うち二度は、戦乱の際、人為的に堤防を破壊したことによるものである。また風により黄砂(こうさ)が吹き上げられるため沙城(さじょう)(砂の町)ともよばれた。現在では堤防を補強し、黄河の水を引いて灌漑(かんがい)し、水稲栽培を増やすことによって砂を固定しているため、災害はほとんどなくなった。農産物の集散地で、師範大学など高等教育施設もある。
[駒井正一・編集部 2017年12月12日]
戦国時代に水利事業の振興で名高い魏が、紀元前362年に都して大梁(たいりょう)と称し、黄河と済水(せいすい)、淮水(わいすい)などとを結ぶ運河網をつくり、学術も栄えた。秦(しん)が魏を滅ぼしたあと荒廃し、東魏が梁州を建て、北周の時代に汴州と改名した。
隋(ずい)が大運河を築いたとき、泗州(ししゅう)から黄河に通じる汴河(通済渠(つうせいきょ))という運河が開かれ、汴州は洛陽(らくよう)方面への補給を任務とする交通大幹線に臨むため、政治や経済の要所となった。安史(あんし)の乱以後、節度使の争いはこの汴州周辺の支配を焦点とし、唐を倒した後梁(こうりょう)は東都開封府を開き、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)を経て北宋(ほくそう)もここに都し開封と称した。以後人口は100万を超え、三重の城ができ、政治・商業都市として繁栄、孟元老(もうげんろう)の『東京夢華録(むかろく)』、張擇端(ちょうたくたん)の『清明上河図巻(せいめいじょうかずかん)』に盛時のようすが詳しく記録された。
北宋末、金(きん)の猛攻でついに落城、金が一時都したが荒廃し、黄河の洪水、流路の移動もあって衰え、元、明(みん)、清(しん)の時代には一地方都市にとどまった。
[斯波義信 2017年12月12日]
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…省域の大部分は河南道で,一部は河北・淮南・山南の3道に分属していた。唐が滅んだのち,五代では後唐が洛陽に都をおいたほかは,みな東方の汴州(べんしゆう)(開封)を都としたのは,そこが平原に位置し,洛陽に比べていっそう水運の便に恵まれていたからであった。宋代になると汴州は汴京(べんけい)開封府といい,北宋一代にわたり全中国の国都として栄えた。…
…中国,北宋の都汴京(べんけい)(河南省開封)の都市繁盛記。10巻。…
※「開封」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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