ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「郅支単于」の意味・わかりやすい解説
郅支単于
しっしぜんう
Zhi-zhi Chan-yu; Chih-chih Ch`an-yü
[没]前36
西匈奴(→匈奴)の単于(在位前56~前36)。第12代虚閭権渠単于(きょろけんきょぜんう)の子。5単于の乱立抗争から呼韓邪単于が他を押さえつつあった前56年,その兄の左賢王呼屠吾斯(ことごす)が立ち郅支単于と称し,前54年西辺の閏振単于を合わせ,呼韓邪を攻略,呼韓邪は漢にくだった。郅支は匈奴統一を企図し,西進して烏孫に援助を求めたが失敗。北進し烏掲(うけい)をくだし堅昆,丁零を合わせ,エニセイ川上流を本拠に烏孫を攻略。のち勢力を強めてきた呼韓邪を恐れ,康居の誘いに応じキルギス高原に移動したが,結局前36年西域都護の甘延寿が率いる漢軍にタラス川流域で殺された。
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