日本大百科全書(ニッポニカ) 「西域都護」の意味・わかりやすい解説
西域都護
せいいきとご
中国、紀元前60年、前漢宣帝のとき、西域経営の拠点として亀茲(きじ)(新疆(しんきょう)ウイグル自治区天山南麓(なんろく))東方烏塁(うるい)城に置かれた官。都護とは西域の南・北道を統括する意。西域諸国の監督と絶遠の国々の朝貢とをつかさどる。前漢の西域経営は武帝のときに始まるが、西域都護府の設置によって直接支配するようになった。しかし漢と匈奴(きょうど)、西域諸国との力関係で置廃を繰り返した。後漢(ごかん)の光武帝のときには中断するが、紀元後74年明(めい)帝のときに復活、のちにまた一時中断するが、91年ふたたび設置され、班超(はんちょう)が任命されてからは朝貢国が50余国に上った。107年、西域都護は廃され、西域経営を行う場合には西域長史が置かれた。
[鶴間和幸]