西域都護(読み)せいいきとご(英語表記)Xi-yu du-hu; Hsi-yü tu-hu

  • さいいきとご
  • 西域都護 Xī yù dū hù

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国,古代官職で,西域統治のためにおかれた都護府長官前漢宣帝のとき,鄭吉が烏壘城 (タリム盆地のチャーディル) に都護府をおいたのに始る。王莽時代に滅ぼされたが,後明帝時代に復活,その後一時廃止。和帝のときに班超が再び西域都護として活躍。その後も興廃があったが,唐代には安西都護と呼ばれ,安西四鎮を従えてをふるった。

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世界大百科事典 第2版の解説

中国,漢代におかれた西域統御のための官。漢では前2世紀末の武帝期からタリム盆地のオアシス諸国へ進出をはじめ,屯田兵を配置してきたが,前60年(神爵2)に匈奴の日逐王が投降したのを機にこの官を設け,西域全域の経営と東西交易路の確保に当たらせた。前漢末以後,匈奴の南下やオアシス諸国の離反などで廃置が繰り返されるが,91年(永元3)に班超がこの官となって亀茲(きじ)(クチャ)に駐屯した。2世紀になると,ついに廃されて漢の西域経営は放棄された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国、紀元前60年、前漢宣帝のとき、西域経営の拠点として亀茲(きじ)(新疆(しんきょう)ウイグル自治区天山南麓(なんろく))東方烏塁(うるい)城に置かれた官。都護とは西域の南・北道を統括する意。西域諸国の監督と絶遠の国々の朝貢とをつかさどる。前漢の西域経営は武帝のときに始まるが、西域都護府の設置によって直接支配するようになった。しかし漢と匈奴(きょうど)、西域諸国との力関係で置廃を繰り返した。後漢(ごかん)の光武帝のときには中断するが、紀元後74年明(めい)帝のときに復活、のちにまた一時中断するが、91年ふたたび設置され、班超(はんちょう)が任命されてからは朝貢国が50余国に上った。107年、西域都護は廃され、西域経営を行う場合には西域長史が置かれた。[鶴間和幸]

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旺文社世界史事典 三訂版の解説

漢代に西域を統御するために置かれた駐屯軍の長官
西域都護とは「西域の南北道を都 (す) べ護る」との。匈奴の武力介入を排し,オアシス都市を漢の支配下において屯田経営を行うとともに,貿易路を独占し,また漢の官営隊商を保護する役目をもっていた。都護府は,前60年匈奴が漢に投降したその翌年天山南路烏塁城 (うるいじよう) に置かれたのが最初。王莽 (おうもう) 以後は中絶したが,91年には班超が西域都護に任じられ,クチャ(亀茲 (きじ) )に都護府を置いてから著しく発展し,50余国を従えたが,107年に廃止された。123年以降,西域経営の官は西域長史と呼ばれた。

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世界大百科事典内の西域都護の言及

【漢】より

… 第10代の宣帝は内政において充実した隆盛期をもたらした皇帝であるが,外交面でも大きな足跡を残した。すなわち烏孫と同盟して匈奴を討ち,さらに匈奴に代わって北方に進出してきた羌(きよう)族(チベット種)を屈服せしめて西域との交通路を確保し,前60年(神爵2)には鄭吉を西域都護に任命して亀茲(きじ)に駐在させ,西域諸国を鎮撫させた。弱体化した匈奴はその後,内部分裂をおこし,漢に投降した呼韓邪(こかんや)単于は前51年(甘露3)に臣と称して来朝した。…

【明帝】より

明堂(執政の殿堂)・辟雍(へきよう)(天子の建てた大学)の完成とともに,大射礼・養老礼(三老五更の儀礼)を執行し,また,外戚の子弟に五経を教える学校を建てるなど儒教の普及につとめた。対外的には,竇固(とうこ)や班超を派遣して北匈奴および車師など西域諸国を討たせ,亀茲(クチャ)に西域都護をしばらく設置した。仏教は,明帝の治世のときに初めて中国に伝来し,洛陽西郊に白馬寺を建立したとされる。…

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