日本歴史地名大系 「野々市分」の解説
野々市分
ののいちぶん
「予陽河野家譜」天正一三年(一五八五)七月の記事に「隆景進軍攻高峠(中略)城兵(中略)各成同死之約、出張于楢木、陣于野市原矣」とある。地名は、野原に市が立つ意の野之市が野々市となったという(西条誌)。寛文二年(一六六二)、氷見村から分村して、
元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記には「高五拾四石八斗五升壱合 氷見村枝郷野々市分」とあり、天保郷帳にも元禄村高とほぼ同じで「野々市分」とあるが、天保一三年(一八四二)の「西条誌」では、西泉村の枝在所、家数五〇軒ほどと記し、明治初年の「伊予国新居郡地誌」にも、西泉村の字野々市上下両組と記している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報