金木村(読み)かなぎむら

日本歴史地名大系 「金木村」の解説

金木村
かなぎむら

[現在地名]金木町金木

梵珠ぼんじゆ山地大倉おおくら岳に源を発する金木川右岸の扇状地にあり、東は大倉岳山頂で蓬田よもぎた村・阿弥陀川あみだがわ(現東津軽郡蓬田村)、西は蒔田まきた村、北は川倉かわくら村、南は嘉勢かせ村、東南は喜良市きらいち村に接する。

安政二年(一八五五)の神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)に「比山兄弟追討天正七年の砌(中略)社司被仰付、生涯御米等被下置、尚山野産業厚く開発致候様被仰付難有相勤、天正十年十月病死仕候」とあり、また「平山日記」の天正七年(一五七九)の項に「比山之大勢茶磨館に籠り候処無何帰り申候、又比山六郎金木村ニて捕共有」とあり、藩政以前からの開村がうかがえる。その後大洪水の被害の記事として「津軽歴代記類」寛永一五年(一六三八)に「又大洪水。下ママ切原子村より、下通り金木村辺迄破損、田地不残、泥に埋ミ退転ニ及ぶ」とある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡に高一八六・二石とあり、うち田方は一六二・二石であった。貞享検地に先立って金木村庄屋儀兵衛が貞享元年(一六八四)に提出した天和書上帳(金木郷土史)には、給地田地一千八〇五人役七歩、御蔵田地四九九人役二歩、給地畑三三六ツ役四歩、御蔵畑五四ツ役二歩、屋敷数合せて一〇五とあり、うち御蔵抱屋敷九、一年作屋敷三三、鍛冶屋敷一、給知屋敷六二とある。手作りする者四三人、郷足軽二七人、小人四人で、耕作田地の規模は四〇人役(一人役は二〇〇歩)以上の者一九人、このうち徳田孫兵衛は一二〇人役、工藤伝右衛門は九四人役であった。


金木村
かなぎむら

[現在地名]砥用町畝野うねの 金木・三本松さんぼんまつ

東は岩上いわがみ村、西および南は水上みずかみ村、北は用来ようらい村と接する。北部は山林で覆われる。文明一四年(一四八二)九月一七日の阿蘇惟家置文写(阿蘇家文書)に「ともちのうちかな木のむら」とみえ、惟家の父惟忠が倉原の給分であったものを三〇貫文で買得し、菩提寺の寺領として寄進した。「郡村誌」にみえる金木居屋敷・城居屋敷・興味屋敷などの字名も関連するであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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