神原村(読み)かみのはらむら

日本歴史地名大系 「神原村」の解説

神原村
かみのはらむら

[現在地名]茅野市玉川たまがわ 神之原

小泉こいずみ(一〇七〇メートル)の南西、北西部は粟沢あわざわ村、南は神新田かみしんでん村と隣接する。

神之原は古くは原、原之郷とよばれ、嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に「原ニハ小別当上ゴセ下ノゴセ新社明神」とあり、永禄八年(一五六五)武田信玄が出した「諏方上下社祭祀再興次第」には「十二月十五日の神事、原之郷よりつとむるのよし申し候へ共、あり所不知」とみえている。また、慶長一八年(一六一三)の信州諏訪郡高辻には「高四百八拾石 原村」とあり、翌一九年の信州諏方御頭帳には同石高で上之原かみのはら村とある。この四八〇石のうち二八一石が上社領、一九九石が下社領で、村からの納租は上社領はてら方(神宮じんぐう寺・如法によほう院・蓮池れんち院の諸坊に納租するもの)とみや(大祝・五官及び大祝の家老・奉行・小社人等に納租するもの)、下社領はしも(下社の社家に納租するもの)に分れ、この三組は寺方―昌林しようりん寺の組、宮方―阿弥陀あみだ堂の組、下方―荒神あらがみ薬師堂の組の三ヵ所の寺の檀家をもとにして分れていた。

神原村
かんばらむら

[現在地名]加茂町神原

東は宇治うじ村、南は三代みじろ村。村の北をあか川が流れ、下流で斐伊川に合流する。享禄四年(一五三一)九月二一日の綱永書下(晴木家文書)に神原村がみえ、村内の松井宮の支配が百松丸に安堵されている。永禄五年(一五六二)七月九日の毛利元就・隆元連署判物(山内家文書)により、神原三〇〇貫が滑平四郎・宇野下総守に宛行われた。三代・神原三〇〇貫のうち滑平氏・宇野氏にそれぞれ一五〇貫ずつ与えられたことは、天正一四年(一五八六)三月八日の山内隆通知行書立(同文書)に確認される。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高八九七石余、寛文四年(一六六四)の本田高六九一石余・新田高八九石余。「雲陽大数録」では高七六〇石。寛政一二年(一八〇〇)の人数四七八(「大原郡宗門改」加茂町誌)

赤川は当村付近で大きく蛇行し、水害の被害は大きかった。

神原村
かのはらむら

[現在地名]富岡市神農原かのはら

南境をかぶら川、村央を蚊沼かぬま川が東流、東は田島たじま村、西は神成かんなり村・上小林かみこばやし村、北は宮崎みやざき村と接し、北西部を下仁田しもにた道が抜ける。寛文郷帳では旗本戸川領。元禄一一年(一六九八)より旗本中沢・松平・岩出領の三給。元禄郷帳以下では各領二七〇石余。承応三年(一六五四)検地帳(茂木文書)によると田一四町六反六畝余・畑五二町五反四畝余・屋敷三町五反一畝余。明和元年(一七六四)の村明細帳(同文書)では田一二町八反余・畑五九町二反余で、畑には桑原一反余・萩畑一町二反余がある。文化一二年(一八一五)の中沢領の年貢皆済目録(今井文書)には小物成として餅米五俵三斗・大豆四斗余・荏四斗余・莚五枚がみえる。

神原村
かがはらむら

[現在地名]中里村神ヶ原

南部に諏訪すわ(一二〇七・一メートル)、北東部にしろ(九二二メートル)、南東部にかのう(一一〇六・三メートル)などがそびえ、神流かんな川が南流する東福寺とうふくじ川や北流する間物沢まものさわ川を合して村央を東流する。東は魚尾よのお村と武蔵国秩父ちちぶ藤倉ふじくら(現埼玉県秩父郡小鹿野町)、南は同郡河原沢かわらさわ(現同上)、北は平原へばら村、西は野栗沢のぐりさわ村・新羽につぱ(現上野村)と接する。村央を東西に十石じつこく街道が抜ける。近世はおおむね幕府領。慶長一九年(一六一四)年貢勘定帳(高崎市立図書館蔵)によると高一八貫六八一文で、綿一貫七六〇匁・漆三五七匁を、寛永八年(一六三一)の年貢請取状(同館蔵)では年貢銭永二三貫七四三文、ほかに紙舟役永一貫一〇〇文などを納めている。

神原村
かんばらむら

[現在地名]金木町神原

金木川と岩木川の合流点付近の自然堤防上にある。東は蒔田まきた村、北は豊島としま(現中里町)に接し、南西の岩木川対岸は家調かちよう村・繁田しげた(現西津軽郡稲垣村)

金木新田一八ヵ村の一つで、元禄一一年(一六九八)からの取立て。蒲原とも記した。「津軽信政公事績」宝永三年(一七〇六)一〇月条に「金木新田川除堤川口村より神原村まで之間水除堤川端へ出て洪水の節三方より水湛に相成候間神原引移し水除堤築替」とあり、もとは金木川落合付近にあったが、この時現在地に移った。川口かわぐち村は享保一二年(一七二七)以降は蒔田村と改名(平山日記)

神原村
かんばらむら

[現在地名]大田市富山町神原とみやまちようかんばら、簸川郡多伎たき町神原

朝倉あさくら村・仙山せんやま村の南に位置し、東は奥田儀おくたぎ川を挟んで出雲国神門かんど奥田儀村(現多伎町)。正保国絵図に村名がみえ、高二〇四石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると田方一五七石余・畑方五〇石余、年貢高は米七八石余・銀四〇七匁余。小物成として炭竈役一一匁などが課されている。家数は本家七七・門屋三二、人数四八三。二二町二反余の御立山がある。文政二年(一八一九)の家数人別牛馬調(野沢家文書)では家数九九・人数三四六、牛六五・馬一。当村は出雲国への間道筋にあたるため、島津屋しまつや口番所の兼帯番所として小規模の神原口番所が設けられた。

神原村
かんばらむら

[現在地名]谷汲村神原

木曾屋きそや村の北西に位置する。人家は上神原・下神原の二集落に分れている。延暦二〇年(八〇一)創建という横蔵よこくら寺がある。同寺蔵文書に美濃坂本さかもと横蔵寺などとみえ、天正一七年(一五八九)一一月一八日の木村常陸介折紙(横蔵寺文書)には坂本村検地により年貢米四石と定めたとある。この坂本は上神原の内にあった門前集落で、上神原にはほかにつじという集落もあった。慶長郷帳に村名がみえ、高一九八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では堀直寄(越後長岡藩)領。

神原村
こうばるむら

[現在地名]宇土市神合こうあい

東は打越うちごし村、北は石橋いしばし村、西は神山こうやま村、南は浦上うらがみ(現宇土郡不知火町)に接し、北・東は平坦で、南・西は高低がある。村の北東に栗崎下くりざきした、中央に東屋敷ひがしやしき、東に総図迫そうずさこなどの字地がある(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。正保郷帳では田方一七二石七斗余・畠方五七石六斗余。「国誌」に「小石久馬村・小田村等小村アリ」とある。

神原村
こうばらむら

[現在地名]高梁市松原町神原まつばらちようこうばら

春木はるき村の南東に位置し、東は田井たい村、南は川乱かわみだれ村。集落は標高四〇〇メートル前後の高原上に点在する。寛永備中国絵図に村名がみえ、高一五五石余、山崎家治先知。正保郷帳でも同高、松山藩領(以後の領主の変遷は松山西村に同じ)、宮林少・芝草山大の注記がある。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)では古高五六〇石余・新高六六〇石余。

神原村
かんばらむら

[現在地名]大山町神原

中高なかだか村の北東、阿弥陀あみだ川西岸にある。村名はかみの原から転訛したものかとされ(大山町誌)、古くは「かみはら」と称した。拝領高は一一六石余、本免は三ツ三分。米子荒尾氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」の高一四〇石余、竈数七、天保九年(一八三八)の御巡見様御通行万端袖控(橋井家文書)では家数九、幕末の六郡郷村生高竈付では生高一五八石余、竈数一一。

神原村
かんばらむら

[現在地名]竹野町森本

森本もりもと村の南、竹野川とその支流はじかみ川の合流地に位置する。天保七年(一八三六)までの領主の変遷は宇日うひ村に同じ。以後は幕府領で幕末に至る。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高四一石余。元禄九年(一六九六)の但州村々法度五人組帳(冨森家文書)でも同高。元文四年(一七三九)の家数人数其外書上帳(細田家文書)によると家数二・人数一〇、社一、牛二。

神原村
かみはらむら

[現在地名]亀岡市東別院ひがしべついん町神原

たつ山の南麓に位置し、東西に山があり、南北に続く山間の谷あいに田畑がある。東掛とうげ川が南流する。南は小泉こいずみ村。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高九一・七三石、戸数二〇、亀山藩領。

神原村
このはらむら

[現在地名]飯南町有間野ありまの

有間野村の西、櫛田くしだ川の右岸にある。「五鈴遺響」に「滝野神社ニ対スルノ名ニシテ神殿ニ相同シ」と記されている。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「神原村」と記されている。明治二年(一八六九)大指出帳(徳川林政史蔵)によれば家数二二、人数一〇五、産物は煎茶・芋茎・串柿である。

神原村
かんばらむら

[現在地名]米沢市神原

口田沢くちたざわ村の南西に位置し、小樽こたる川沿いの河岸段丘上に立地。上原村と書かれることが多い。近世初期には田沢村のうちに含まれたと推定される。正保郷帳に上原村とみえ、田二〇五石余・畑一二〇石余。上杉領村目録によれば高四七四石余、本免一ツ八歩六厘余、反別田二七町三反余・畑一一町五反余(文化一二年改)、家数一五・人数九八、馬二二〇、漆木は一千一一一本、うち役木三八七・百万本口三三〇、蚕利三七両一分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報