金鍾泌(読み)きんしょうひつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金鍾泌」の意味・わかりやすい解説

金鍾泌
きんしょうひつ / キムジョンピル
(1926―2018)

韓国大韓民国)の軍人、政治家。忠清南道(ちゅうせいなんどう/チュンチョンナムド)扶余(ふよ/プヨ)出身。1945年解放後、ソウル大学師範大を経て、1948年陸軍士官学校第8期卒業。軍情報部関係のポストを歴任朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)の姪(めい)朴英玉(ぼくえいぎょく/パクヨンオク)と結婚し、1961年軍事革命に際し、朴を補佐する役割を果たし、韓国中央情報部KCIA)を創設して初代部長となった。1963年民主共和党創立のプロモーターとして活躍、日韓国交正常化に尽くしたのち、1971年国務総理。以後、大統領朴と微妙な関係に入り、失脚復権を繰り返しながら、韓・日・米間を往来。1979年朴の暗殺後、金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)、金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)とともに大統領候補となり「三金時代到来」といわれたが、1980年5月、戒厳司令部に連行され、政界から追放。1985年政治活動解禁。共和党総裁、自由民主連合総裁となり、1997年大統領選で旧政敵の金大中候補を支持して当選させ、1998年発足した金大中政権の国務総理(首相)となる。2001年首相を辞任、下野した。2004年の総選挙で落選し政界を退いた。

玉城 素 2018年7月20日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金鍾泌」の意味・わかりやすい解説

金鍾泌
きんしょうひつ

「キム・ジョンピル(金鍾泌)」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の金鍾泌の言及

【韓国中央情報部】より

…朴正熙少将(当時)の軍事クーデタ(1961年5月16日)が成功した直後,〈反革命から軍政を守る〉ことを目的とし,国家再建最高会議の直属機関として発足した。初代部長に金鍾泌(きんしようひつ)(のちの首相)が就任,63年秋の民政移管後は〈国家安保に関連する情報・保安および犯罪捜査に関した事務を担当する〉ため大統領直属機関となった。組織,定員,予算は非公開。…

【大韓民国】より

…維新体制に対する民衆の批判を高度経済成長の実現によってかわしながら長期政権を維持した朴正熙は,79年の第2次石油危機を契機とする不況と,それを背景とした労働運動の高揚,野党=新民党(総裁,金泳三)の急進化,釜山・馬山の民衆暴動等の一連の政治的危機の深まりのなかで,10月26日に腹心の部下である金載圭中央情報部長に射殺され,衝撃的な最期を遂げた。 以後80年前半にかけて民主化運動は急激に発展,次の政権をねらう野党系の金大中,金泳三(1927‐ )と朴政権直系の金鍾泌(1926‐ )が民主化で歩調を合わせ,〈三金時代〉と呼ばれる韓国政治の新時代が始まるかにみえたが,急速な政治変革を恐れた軍部は,80年5月17日の非常戒厳令の全国化によって実権を掌握し,抵抗する光州の学生・市民多数の虐殺(光州事件,85年の政府報告では死者192人)を通して,再び軍人中心の全斗煥(1931‐ )政権(第5共和国)を成立させた。全政権は88年ソウル・オリンピック開催などで韓国の国際的評価の向上に努めたが,強権的政治体制と民主化運動という対抗基軸が,依然として韓国の政治を規定する基本的要因であることに変りはなかった。…

【朴正熙】より

…日本の敗戦後は,新生韓国軍に入り,46年陸士2期卒業。以来,陸軍で主に情報,作戦を担当,60年第2軍副司令官となるが,陸軍本部時代に陸士8期卒の金鍾泌と知り合い,8期生を中心とする将校団を率いて,61年5月16日クーデタを断行し,彼らをいわゆる革命主体勢力とした。張勉政権に対する五・一六クーデタは,当初アメリカの反対を受けたが,尹潽善(いんふぜん)大統領の〈認知〉を得て成功,62年3月の尹大統領辞任後,大統領権限代行に就任し,以後18年に及ぶ独裁支配(李承晩政権は12年)をつづけた。…

※「金鍾泌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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