朴正煕(読み)ぼくせいき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「朴正煕」の意味・わかりやすい解説

朴正煕
ぼくせいき / パクチョンヒ
(1917―1979)

韓国(大韓民国)の軍人政治家。第5~9代にわたる大統領。号は中樹。慶尚北道(けいしょうほくどう/キョンサンプクド)善山郡亀尾(きび)面(現、亀尾市)生まれ。1937年に大邱(たいきゅう/テグ)師範学校を卒業し、小学校教諭を務めたのち、1942年に満州国新京軍官学校予科(2期)を抜群の成績で卒業した。さらに日本の陸軍士官学校に留学し、1944年(昭和19)卒業(57期相当)後、満州に配属され、満州国軍中尉で解放を迎えた。帰国後、1946年に警備士官学校卒業(2期)、陸軍大尉に任官した。1950年の朝鮮戦争を陸軍情報局作戦情報課長として迎えたのち、第九師団参謀長、陸軍情報局、作戦局、軍事局を歴任、1953年休戦後、准将となって、アメリカ陸軍砲兵学校に留学。しばらく砲兵畑の要職についたのち、1956年第五師団長、1958年第七師団長、少将。1959年ソウル軍管区司令官、1960年軍需基地(釜山(ふざん))司令官として四月革命を迎えた。それまで経歴・能力に比し出世が遅れたのは、実兄の関係で麗水・順天反乱事件(1948)に一時連座したためとも、軍部内の政治腐敗に抵抗し続けたためともいわれ、現状打破を目ざす将校グループの隠然たる中心リーダーとなった。1961年5月19日の軍事革命を主導して、軍事革命委員会・国家再建最高会議の副議長として脚光を浴び、1962年大統領権限代行に就任した。1963年大将で予備役に退き、民主共和党総裁として第5代大統領に選出された。以後、4選、17年間にわたり大統領として執権した。その間、1965年には日韓基本条約を締結、韓国経済を「漢江の奇跡」とよばれる高度成長の軌道にのせ、1971~1973年には初の南北対話を推進、実現させた。しかし、1972年「十月維新」と称する戒厳令下の憲法改正で、大統領の絶対権限を確立後、北朝鮮、国内外の民主回復派、アメリカ・カーター政権などとの対立を深めた。1974年の陸英修(りくえいしゅう)夫人暗殺事件後には、側近に頼る弾圧政治に傾き、ついに1979年10月26日、金載圭(きんさいけい/キムジェギュ)中央情報部長の手にかかり横死した。分裂時代韓国の中興の英雄との評価もある。

[玉城 素]

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改訂新版 世界大百科事典 「朴正煕」の意味・わかりやすい解説

朴正煕 (ぼくせいき)
Pak Chǒng-hǔi
生没年:1917-79

韓国の軍人,政治家。慶尚北道善山の貧しい農家の五男に生まれ,1937年大邱師範卒業後,40年まで聞慶小で教壇に立ったが,その後満州軍官学校をへて日本の陸軍士官学校へ特典入学。日本の敗戦後は,新生韓国軍に入り,46年陸士2期卒業。以来,陸軍で主に情報,作戦を担当,60年第2軍副司令官となるが,陸軍本部時代に陸士8期卒の金鍾泌と知り合い,8期生を中心とする将校団を率いて,61年5月16日クーデタを断行し,彼らをいわゆる革命主体勢力とした。張勉政権に対する五・一六クーデタは,当初アメリカの反対を受けたが,尹潽善(いんふぜん)大統領の〈認知〉を得て成功,62年3月の尹大統領辞任後,大統領権限代行に就任し,以後18年に及ぶ独裁支配(李承晩政権は12年)をつづけた。63年の選挙で民主共和党から立候補して第5代大統領に当選。革命主体勢力の金鍾泌を新設した韓国中央情報部の部長とさせたり,革命主体勢力外の李厚洛を重用して革命主体勢力を牽制させるなど,つねに権力内部の均衡をはかって有力な対抗者をあらかじめおさえこんだ。韓国を近代化させるためにアメリカの軍事援助と日本の経済援助が不可欠だとして日米との関係強化に努め,65年には国内の反対を抑えて日韓条約を締結し,同年ベトナムにも派兵した。1962年以降,5ヵ年計画に沿って経済成長をはかり,日本の協力で浦項総合製鉄所などを建設した。67年に大統領に再選,69年3選禁止条項を改定,71年には野党の金大中を破って大統領に3選された。緊張緩和の世界情勢のなかで,72年7月南北朝鮮共同声明が発表されたが,国内の動揺をおさえるため10月には戒厳令をしいて国会を解散,憲法を改正して大統領の権限を強化し(4選禁止条項も消滅,任期を6年に延長),〈十月維新〉体制を実現した。同年,大統領に4選されたが,73年の金大中事件を契機に反朴・民主化運動が強まり,また77年の対米不正工作事件(コリアゲート事件)など国際的スキャンダルも生んだ。軍人的,上意下達式な強権支配はセマウル運動などを通して経済の高度成長を達成するうえで効果はあったが,他方で不正腐敗,貧富の格差拡大といったひずみも広げた。74年8月には在日韓国人青年文世光による大統領狙撃事件によって夫人陸英修を失い,79年にはみずからも側近の金載圭中央情報部長に殺害されるという,悲劇的な生涯であった。
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百科事典マイペディア 「朴正煕」の意味・わかりやすい解説

朴正煕【ぼくせいき】

韓国の軍人,政治家。慶尚北道の人。満州軍官学校卒業後,1944年日本の陸軍士官学校を卒業,関東軍に編入され中尉で終戦。以後,韓国国防軍内にあり,1961年少将,第2軍副司令官として5・16クーデタを指導,尹【ふ】善大統領の認知を得て権力を奪取。1963年民主共和党総裁,大統領に選出,以後連続して大統領。1965年日韓条約を締結し,1972年憲法改正で永続政権を目ざしたが,1979年金載圭により射殺され,翌年クーデタにより全斗煥政権が登場した。長女の朴槿恵〔1952−〕は2004年ハンナラ党代表に就任。
→関連項目キム・ジハ金泳三金大中光州事件四月革命大韓民国東亜日報日韓会談朴槿恵李厚洛盧泰愚

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「朴正煕」の解説

朴正煕 パク-チョンヒ

1917-1979 韓国の軍人,政治家。
1917年11月14日生まれ。1961年陸軍少将のとき,軍事クーデターで国家再建最高会議を組織。1963年大統領に当選し,4期17年在職。1965年日韓基本条約を締結,高度経済成長を実現させた。南北対話を開始し,同時に大統領権限を強化し維新体制をしく。1979年10月26日側近の金載圭(キム-ジエギユ)中央情報部長に射殺された。63歳。慶尚北道出身。日本の陸軍士官学校卒,韓国の陸軍大学校卒。

朴正煕 ぼく-せいき

パク-チョンヒ

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367日誕生日大事典 「朴正煕」の解説

朴 正煕 (パク チョンヒ)

生年月日:1917年9月30日
韓国の軍人,大統領
1979年没

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朴正煕」の意味・わかりやすい解説

朴正煕
ぼくせいき

「パク・チョンヒ(朴正煕)」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の朴正煕の言及

【セマウル運動】より

…朝鮮語でセマウルsae‐maulは〈新しい村〉を意味し,農民の意識の活性化による遊休労働力の動員から出発し,社会資本を充実させ,農村の近代化,農家所得の増大,農業生産力の拡大を図ることをねらいとする。1970年,朴正熙大統領の指示に基づき,〈自助・自立・協同〉のスローガンのもとに主に農民の自己負担により農閑期の生活環境改善事業が開始された。72年に運動の推進機構が全国的に整備されるとともに,スローガンも〈勤勉・自助・協同〉と変更され,朴政権の〈維新体制〉を支える重要な柱となった。…

【大韓民国】より

…代わって成立した第2共和国では,李独裁体制への批判から,大統領権限を大幅に縮小した責任内閣制に転換し,李政権時代の野党(民主党)を基盤とする張勉政権(尹潽善大統領)が登場したが,四月革命を生起させた民衆のエネルギーは張政権の規制を乗りこえ,民主化と統一を求める運動は空前の高揚を示した。
[朴政権から全政権へ]
 こうして南北分断状況に新たな局面が開かれるかにみえたとき,61年5月16日に軍事クーデタ(五・一六クーデタ)が勃発し,軍人を主体とする朴正熙政権(第3共和国)が成立した。新憲法では再び大統領権限が強化され,しかも朴正熙は政権永続化を意図して69年には李承晩同様に大統領任期の3選禁止条項を改定した。…

【日韓条約】より

…1951年11月に日韓予備会談が開始されて以降,53年10月に,〈日本の朝鮮統治は恩恵を与えた〉とする日本側の久保田貫一郎主席代表の発言により第3次会談が中断状態となるまでは,朝鮮戦争(1950‐53)に日本を直接荷担させようとするアメリカの圧力が前面に出ていたが,李承晩政権の反日姿勢は固く,日韓両国の主張にはまだ大きな隔りがあった。しかし,長い中断期間をへて58年4月第4次会談が再開されて以降は,復活した日本の独占資本が対韓再進出衝動を強めており,また61年5月に成立した朴正熙政権は日本の資本をひきいれての〈近代化〉路線による権力基盤の補強を志向し,さらにベトナム戦争に深入りするアメリカの,韓国についての対日〈肩替り〉要求とも合致して,会談は急速に進行するようになった。 だが,〈日帝の再来〉と〈第二の李完用たることも辞せず〉とする朴政権の姿勢への韓国民衆の批判は鋭く,日本でも革新勢力による日韓会談反対運動が一定の展開を示した。…

※「朴正煕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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