日本歴史地名大系 「長狭郡」の解説 長狭郡ながさぐん 千葉県:安房国長狭郡安房国東側に位置した古代以来の郡。北と東は清澄(きよすみ)山系を隔てて上総国に連なり、西は平群(へぐり)郡・朝夷(あさい)郡と接し、南は太平洋に面している。郡域は現在の鴨川市のほぼ全域と天津小湊(あまつこみなと)町全域、そして古代には現勝浦市の一部地域にわたっていた。郡の北側の清澄山系と南側の嶺岡(みねおか)丘陵との間を流れる加茂(かも)川や待崎(まつさき)川の流域に沖積地(長狭平野)が広がっており、海岸寄りの低地には広範囲にわたって砂丘列が形成されている。また郡の東側の天津小湊町から勝浦市、南側の鴨川市太海(ふとみ)から江見(えみ)にかけての地域は狭い海岸部の段丘面や小河川の流域の段丘面に平坦地がみられる程度で、大半が山地である。郡名の異表記は確認できない。「和名抄」東急本に奈加佐の訓がみえ、同書名博本および「延喜式」民部省ではナカサとする。「寛政重修諸家譜」では「ながさ」と訓じている。当郡は安房四郡のなかで唯一中世においても令制下の郡名が継承され、近世に至っている。〔原始・古代〕縄文時代では数少ない外洋性の貝塚である松(まつ)ヶ鼻(はな)遺跡が天津小湊町の海岸に面した山腹に所在。弥生時代に入ると長狭平野の待崎川流域や江見地区の洲貝(すかい)川流域の段丘面に集落が形成されはじめ、待崎川左岸の和泉男金前(いずみおがねまえ)遺跡や広場不春知(ひろばはしらず)遺跡からは後期の大規模な集落遺跡が検出されている。古墳時代では海岸に近い待崎川左岸の砂丘上に広場古墳群(円墳五基、以上鴨川市)が築造され、そのうちの後広場(うしろひろば)一号墳からは縄掛突起をもつ刳抜式舟形石棺が検出され、直刀と鉄鏃が出土している。ほかに加茂川下流域に金塚(かなづか)古墳・廻塚(まわりづか)古墳・毛無(けなし)古墳(同上)など、天津小湊町の二間(ふたま)川流域に石棺が検出された清澄山麓(きよすみさんろく)古墳が所在しているが、他の三郡同様、高塚古墳は少ない。横穴は曾呂(そろ)川南岸の河口付近に岡波太(おかなぶと)横穴群(鴨川市)など二群四基、長狭平野では内陸部に入った上流北岸に大山(おおやま)横穴群(四基、同上)、また勝浦市興津(おきつ)周辺の海岸部に長網(ながあみ)横穴群など三群一〇基があるのみで、安房国のなかでは極端に横穴が少ない。集落遺跡は近年の発掘調査により待崎川左岸の広場不春知遺跡や和泉男金前遺跡から古墳時代前期・中期の竪穴住居跡や土器、和泉山王前(いずみさんのうまえ)遺跡(鴨川市)では古墳時代後期から奈良・平安時代の大規模な集落跡が検出されている。また嶺岡山系にある嶺岡上牧の通称天塚(あまつか)(二〇〇メートル)とよばれる嶺岡遺跡(同上)から七鈴鏡が出土、同山系の通称観音台(かんのんだい)(二〇〇メートル)からは嶺岡東下牧火葬墓が検出され、小石室の内部から八世紀前半の骨蔵器二個が出土している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by