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安房国 あわのくに

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

安房国
あわのくに

現在の千葉県房総半島南端にある。東海道の一国。中国。初め上総国の一部であったが,養老2 (718) 年安房国として独立。天平 12 (740) 年に再び上総国に合併。さらに天平宝字1 (757) 年,一国に独立。

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デジタル大辞泉の解説

あわ‐の‐くに〔あは‐〕【安房国】

安房

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百科事典マイペディアの解説

安房国【あわのくに】

旧国名。房州とも。東海道の一国。今の千葉県南部。718年上総(かずさ)国から4郡をさいて分置。《延喜式》に中国,4郡。中世初期に三浦氏,後期に上杉氏,里見氏らが領有。
→関連項目関東地方千葉[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

あわのくに【安房国】

現在の千葉県南部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の南房総市、国分寺は館山市におかれていた。1180年(治承(じしょう)4)に伊豆で挙兵し失敗した源頼朝(みなもとのよりとも)がこの地に逃れ、在地豪族の安西氏、東条氏らの援助で再挙をはかった。その後、結城(ゆうき)氏、上杉氏らが守護となったが、中世末期から近世初期にかけては、滝沢馬琴(たきざわばきん)の『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』で知られる里見氏が安房を制圧した。江戸時代、里見氏は伯耆(ほうき)国鳥取県)に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))、安房は4藩と幕府直轄領、旗本知行地に分割され幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により木更津(きさらづ)県に属したが、1873年(明治6)に木更津県と印旛(いんば)県が合併し千葉県となった。◇房州(ぼうしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

あわのくに【安房国】

旧国名。現在の千葉県南部。
【古代】
 東海道に属する中国(《延喜式》)。718年(養老2),北の上総国の平群(へぐり),安房,朝夷(あさひな),長狭(ながさ)4郡を分割して,安房国を建てた。その後,741年(天平13)にもとの上総国に併合されたが,757年(天平宝字1)ふたたび分立して安房国となった。かつて《国造本紀》に成務朝に定まったと伝える阿波国造と,《古事記神武天皇段にみえる長狭国造の地域であった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

安房国
あわのくに

千葉県南部の旧国名。房州(ぼうしゅう)ともいう。東海道十五か国の一つ。『延喜式(えんぎしき)』の等級は中国で、遠国に属する。関東地方の南東部に位置し、浦賀水道を隔てて三浦半島と対する。北は鋸(のこぎり)山、清澄(きよすみ)山を境として上総国(かずさのくに)に接する。成務(せいむ)朝に阿波国造(あわのくにのみやつこ)が置かれ、応神(おうじん)朝に長狭(ながさ)国造が置かれた。平安時代の初め807年(大同2)の斎部広成(いんべのひろなり)著『古語拾遺(こごしゅうい)』によると、古く太玉命(ふとだまのみこと)の孫天富命(あめのとみのみこと)が四国の阿波(あわ)(徳島県)の斎部氏の一部を引き連れて東方に移動し、麻(あさ)・穀(かじ)を播殖(はんしょく)させ、その居所を安房郡と名づけたという。しかも天富命が太玉命を祀(まつ)った安房社がいまの安房神社(館山(たてやま)市大神宮)で安房国の一宮(いちのみや)である。
 現在の房総は古く「総国(ふさのくに)」と称したが、大化改新のとき、ほぼ半島を二分して南部を上総国、北部を下総(しもうさ)国とした。その後718年(養老2)5月になると、上総国の平群(へぐり)、安房、朝夷(あさひな)、長狭の4郡を分離して安房国を置いた。しかし安房国は741年(天平13)12月もとの上総国に併合されたが、757年(天平宝字1)5月ふたたび上総国から分立して安房国(現在の館山市と安房郡)を建て、その後は変化はなかった。国府は現在の南房総(みなみぼうそう)市、国分寺は館山市にあった。安房国府から京師(けいし)まで、上り34日、下り17日を要した。730年(天平2)の『安房国義倉帳(ぎそうちょう)』(正倉院文書)によると、同国内の一部に関するものであろうが、義倉粟(あわ)を納めた戸は戸数415戸のうち88、その内訳は中中戸2、中下戸3、下上戸3、下中戸11、下下戸69、ほかに納めない貧戸が327戸あった。平安末期には同国には荘園(しょうえん)が5荘、1保、2牧があった。平群郡の多多良(ただら)荘、安房郡の兵部(ひょうぶ)省の馬牧白浜牧、朝夷郡の伊勢(いせ)大神宮領丸御厨(まるのみくりや)、長狭郡の豊受(とようけ)宮領の東条御厨などである。
 1180年(治承4)源頼朝(よりとも)は挙兵に失敗し、伊豆から安房に逃れ、在地豪族の安西、丸、東条らや上総の平広常(ひろつね)、下総の千葉常胤(つねたね)の応援により再挙を図った。1253年(建長5)小湊(こみなと)出身の僧日蓮(にちれん)は清澄寺(せいちょうじ)で立宗、日蓮宗の開祖となった。南北朝時代末の守護は結城直光(ゆうきなおみつ)、その後山内(やまのうち)上杉憲方(のりかた)がその地位にあった。中世末から近世初期にかけて安房は里見(さとみ)氏の根拠地となった。すなわち、白浜を橋頭堡(きょうとうほ)とした里見義実(よしざね)は1445年(文安2)安房一円を平定、その後義堯(よしたか)のころ上総国にも力は及んだが、その子義弘(よしひろ)が1564年(永禄7)国府台(こうのだい)合戦で北条氏に敗れ、衰勢をあらわにした。近世に入り、1614年(慶長19)忠義のとき、幕閣の手により改易、伯耆(ほうき)(鳥取県)倉吉に追われ滅亡した。近世はおしなべて江戸のお膝元(ひざもと)の体制化に組み込まれ、代官、旗本領、譜代(ふだい)小藩の分立下にあった。藩領は、勝山(のち加知山(かちやま)。初め内藤氏、のち酒井氏)、北条(屋代(やしろ)氏)、東条(西郷氏)、館山(稲葉氏)などであった。1711年(正徳1)には屋代氏の失政により万石(まんごく)騒動が発生した。元禄(げんろく)期(1688~1704)の浮世絵師菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は当国保田(ほた)の出身である。近世を通じて、8代徳川吉宗(よしむね)の勧業政策の一環としての幕府の直轄牧たる嶺岡牧(みねおかのまき)の経営や漁業(鰯(いわし)漁、捕鯨)の発達にみるべきものがあった。花卉(かき)、ビワの栽培も近世後期に始まった。明治を迎え長尾、花房(はなぶさ)、館山、加知山の4藩があったが、1871年(明治4)廃藩置県により木更津(きさらづ)県管下となった。ついで1873年には千葉県管下となり、現在に至っている。[川村 優]
『斎藤夏之助著『安房志』復刻版(1972・中島書店) ▽川村優編『郷土史事典 12 千葉県』(1979・昌平社)』

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