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安房国 あわのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

安房国
あわのくに

現在の千葉県房総半島南端にある。東海道の一国。中国。初め上総国の一部であったが,養老2 (718) 年安房国として独立。天平 12 (740) 年に再び上総国に合併。さらに天平宝字1 (757) 年,一国に独立。国府は南房総市三芳,国分寺は館山市国分御園にあった。『延喜式』には平群郡,安房郡,長狭郡,朝夷郡の4郡があり,『和名抄』には郷 32,田 4335町余が載っている。鎌倉時代の守護は明らかでなく,安西氏,神余氏,丸氏,東条氏の諸氏が分領したらしい。南北朝時代には斯波家長結城直光上杉憲方が守護であったとみられる。室町時代には上杉氏,戦国時代には里見氏が領有。豊臣時代には里見義康の支配が認められた。江戸時代には稲葉氏の館山藩水野氏の北条藩内藤氏の勝山藩,西郷氏の東条藩があった。明治4 (1871) 年の廃藩置県に際しては7月に加知山県,館山県,花房県,長尾県の4県となり,同年 11月に木更津県に合併。 1873年千葉県に編入。

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デジタル大辞泉の解説

あわ‐の‐くに〔あは‐〕【安房国】

安房

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百科事典マイペディアの解説

安房国【あわのくに】

旧国名。房州とも。東海道の一国。今の千葉県南部。718年上総(かずさ)国から4郡をさいて分置。《延喜式》に中国,4郡。中世初期に三浦氏,後期に上杉氏,里見氏らが領有。
→関連項目関東地方千葉[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

あわのくに【安房国】

現在の千葉県南部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の南房総市、国分寺は館山市におかれていた。1180年(治承(じしょう)4)に伊豆で挙兵し失敗した源頼朝(みなもとのよりとも)がこの地に逃れ、在地豪族の安西氏、東条氏らの援助で再挙をはかった。その後、結城(ゆうき)氏、上杉氏らが守護となったが、中世末期から近世初期にかけては、滝沢馬琴(たきざわばきん)の『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』で知られる里見氏が安房を制圧した。江戸時代、里見氏は伯耆(ほうき)国鳥取県)に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))、安房は4藩と幕府直轄領、旗本知行地に分割され幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により木更津(きさらづ)県に属したが、1873年(明治6)に木更津県と印旛(いんば)県が合併し千葉県となった。◇房州(ぼうしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

あわのくに【安房国】

旧国名。現在の千葉県南部。
【古代】
 東海道に属する中国(《延喜式》)。718年(養老2),北の上総国の平群(へぐり),安房,朝夷(あさひな),長狭(ながさ)4郡を分割して,安房国を建てた。その後,741年(天平13)にもとの上総国に併合されたが,757年(天平宝字1)ふたたび分立して安房国となった。かつて《国造本紀》に成務朝に定まったと伝える阿波国造と,《古事記》神武天皇段にみえる長狭国造の地域であった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

安房国
あわのくに

千葉県南部の旧国名。房州(ぼうしゅう)ともいう。東海道十五か国の一つ。『延喜式(えんぎしき)』の等級は中国で、遠国に属する。関東地方の南東部に位置し、浦賀水道を隔てて三浦半島と対する。北は鋸(のこぎり)山、清澄(きよすみ)山を境として上総国(かずさのくに)に接する。成務(せいむ)朝に阿波国造(あわのくにのみやつこ)が置かれ、応神(おうじん)朝に長狭(ながさ)国造が置かれた。平安時代の初め807年(大同2)の斎部広成(いんべのひろなり)著『古語拾遺(こごしゅうい)』によると、古く太玉命(ふとだまのみこと)の孫天富命(あめのとみのみこと)が四国の阿波(あわ)(徳島県)の斎部氏の一部を引き連れて東方に移動し、麻(あさ)・穀(かじ)を播殖(はんしょく)させ、その居所を安房郡と名づけたという。しかも天富命が太玉命を祀(まつ)った安房社がいまの安房神社(館山(たてやま)市大神宮)で安房国の一宮(いちのみや)である。
 現在の房総は古く「総国(ふさのくに)」と称したが、大化改新のとき、ほぼ半島を二分して南部を上総国、北部を下総(しもうさ)国とした。その後718年(養老2)5月になると、上総国の平群(へぐり)、安房、朝夷(あさひな)、長狭の4郡を分離して安房国を置いた。しかし安房国は741年(天平13)12月もとの上総国に併合されたが、757年(天平宝字1)5月ふたたび上総国から分立して安房国(現在の館山市と安房郡)を建て、その後は変化はなかった。国府は現在の南房総(みなみぼうそう)市、国分寺は館山市にあった。安房国府から京師(けいし)まで、上り34日、下り17日を要した。730年(天平2)の『安房国義倉帳(ぎそうちょう)』(正倉院文書)によると、同国内の一部に関するものであろうが、義倉粟(あわ)を納めた戸は戸数415戸のうち88、その内訳は中中戸2、中下戸3、下上戸3、下中戸11、下下戸69、ほかに納めない貧戸が327戸あった。平安末期には同国には荘園(しょうえん)が5荘、1保、2牧があった。平群郡の多多良(ただら)荘、安房郡の兵部(ひょうぶ)省の馬牧白浜牧、朝夷郡の伊勢(いせ)大神宮領丸御厨(まるのみくりや)、長狭郡の豊受(とようけ)宮領の東条御厨などである。
 1180年(治承4)源頼朝(よりとも)は挙兵に失敗し、伊豆から安房に逃れ、在地豪族の安西、丸、東条らや上総の平広常(ひろつね)、下総の千葉常胤(つねたね)の応援により再挙を図った。1253年(建長5)小湊(こみなと)出身の僧日蓮(にちれん)は清澄寺(せいちょうじ)で立宗、日蓮宗の開祖となった。南北朝時代末の守護は結城直光(ゆうきなおみつ)、その後山内(やまのうち)上杉憲方(のりかた)がその地位にあった。中世末から近世初期にかけて安房は里見(さとみ)氏の根拠地となった。すなわち、白浜を橋頭堡(きょうとうほ)とした里見義実(よしざね)は1445年(文安2)安房一円を平定、その後義堯(よしたか)のころ上総国にも力は及んだが、その子義弘(よしひろ)が1564年(永禄7)国府台(こうのだい)合戦で北条氏に敗れ、衰勢をあらわにした。近世に入り、1614年(慶長19)忠義のとき、幕閣の手により改易、伯耆(ほうき)(鳥取県)倉吉に追われ滅亡した。近世はおしなべて江戸のお膝元(ひざもと)の体制化に組み込まれ、代官、旗本領、譜代(ふだい)小藩の分立下にあった。藩領は、勝山(のち加知山(かちやま)。初め内藤氏、のち酒井氏)、北条(屋代(やしろ)氏)、東条(西郷氏)、館山(稲葉氏)などであった。1711年(正徳1)には屋代氏の失政により万石(まんごく)騒動が発生した。元禄(げんろく)期(1688~1704)の浮世絵師菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は当国保田(ほた)の出身である。近世を通じて、8代徳川吉宗(よしむね)の勧業政策の一環としての幕府の直轄牧たる嶺岡牧(みねおかのまき)の経営や漁業(鰯(いわし)漁、捕鯨)の発達にみるべきものがあった。花卉(かき)、ビワの栽培も近世後期に始まった。明治を迎え長尾、花房(はなぶさ)、館山、加知山の4藩があったが、1871年(明治4)廃藩置県により木更津(きさらづ)県管下となった。ついで1873年には千葉県管下となり、現在に至っている。[川村 優]
『斎藤夏之助著『安房志』復刻版(1972・中島書店) ▽川村優編『郷土史事典 12 千葉県』(1979・昌平社)』

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