安房国(読み)アワノクニ

デジタル大辞泉 「安房国」の意味・読み・例文・類語

あわ‐の‐くに〔あは‐〕【安房国】

安房

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日本歴史地名大系 「安房国」の解説

安房国
あわのくに

安房国は現在の千葉県の南部、房総半島の南端部に位置する。三方を海に囲まれ、北の上総国境には房総丘陵の一つのこぎり山―清澄きよすみ山丘陵がそびえ、上総の地と隔てられている。西側は東京湾(浦賀水道)を挟んで三浦半島に面し、南側から東側にかけての太平洋の沖合には黒潮が流れ、温暖な気候であるため、古くから海との関係が深く、海を媒介とした独自の地域文化圏を形成している。律令国家成立当初、当地は上総国に含まれていたが、養老二年(七一八)五月上総国から平群へぐり・安房・朝夷あさい長狭ながさの四郡を割いて新設され(「続日本紀」同月二日条)、天平一三年(七四一)一二月再び上総国に併合されたが(同書同月一〇日条)、天平勝宝九年(七五七)五月もとの四郡をもって再設置された(同書天平宝字元年五月八日条)。国名の由来については、斎部氏の祖天太玉命の孫の天富命が阿波斎部氏を率いて東国に来て、麻・穀を植え、よく育ったので総国と名付け、これが今の上総・下総の二国となり、また阿波忌部が住んだ場所を安房郡と名付け、これが安房国の国名となったという(古語拾遺)

古代

〔安房の黎明〕

安房の地に人々の生活が始まったのは旧石器時代後期の今から一万五千年ほど前からである。その後、一万年くらい前から土器をもった新しい文化の縄文時代が始まると、東京湾を中心とした海上交通により対岸の三浦半島や東京湾西岸の地との人の移動を含めた交流が始まる。この点は、富浦とみうら深名瀬畠ふかなせばたけ遺跡や館山市鉈切なたぎり洞窟遺跡などにみられるように、東京湾西岸の地に分布の中心をもつ土器を主体的に出土する遺跡が所在することからもうかがえる。また伊豆神津こうづ島の黒曜石が搬入されていることなど、人々の交流が伊豆半島を含めて広範囲に及んでいた。弥生時代以降になると千倉ちくら健田たけだ遺跡群や白浜しらはま小滝涼源寺おだきりようげんじ遺跡の東海地方の影響を受けた土器群の出土にみられるように、さらに遠く東海地方の人々も往来してくる。古墳時代の中頃までには海上の道(古東海道)を東進してきた大和政権のもとに政治的に統合されていく。安房の地には古墳時代を象徴する高塚古墳は四〇基余が知られているほどで、他の地域と比べるとずっと少なく、また前方後円墳も平群郡と朝夷郡に二基ずつ計四基の所在が確認されているのみで、いずれも規模が小さいことから、早い段階から大和政権による直轄的な支配が強く及んでいたのではないかと想定されている。

〔国造と氏族〕

安房国の領域内に存在した国造は長狭国造と阿波国造である。

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改訂新版 世界大百科事典 「安房国」の意味・わかりやすい解説

安房国 (あわのくに)

旧国名。現在の千葉県南部。房州。

東海道に属する中国(《延喜式》)。718年(養老2),北の上総国の平群(へぐり),安房,朝夷(あさひな),長狭(ながさ)4郡を分割して,安房国を建てた。その後,741年(天平13)にもとの上総国に併合されたが,757年(天平宝字1)ふたたび分立して安房国となった。かつて《国造本紀》に成務朝に定まったと伝える阿波国造と,《古事記》神武天皇段にみえる長狭国造の地域であった。国府は平群郡にあり,現在の南房総市,旧三芳村府中に推定されている。国分寺も平群郡に存在し,現在の館山市国分に国分寺の遺構がある。《和名抄》記載の田数は,4335町8段59歩。房総半島の最南端で走水の海(浦賀水道)を隔てて相模国に対し,古くは安房・上総・下総のルートであったが,武蔵国が東海道に属すると逆に下総・上総から白浜・川上の駅をへて安房国府に至るルートが公式ルートとなり,《延喜式》の京への行程は上り34日,下り17日である。
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当国の荘園としては,内房に群房荘・多多良荘・長田保,外房に東条御厨・丸御厨(まろのみくりや)がある。平久里の山間部から南流して館山平野を経て館山湾にそそぐ平久里川流域にあった群房荘は新熊野神社領。旧朝夷郡の丸山川流域にひろがる丸御厨は,古代豪族丸氏の根拠地であり,1180年(治承4)源頼朝がこの地を巡見したとき丸五郎信俊が案内者として随行した(《吾妻鏡》)。この地は源頼義が奥羽遠征のとき恩賞として与えられ,1159年(平治1)伊勢神宮に寄進したものである。鴨川平野から天津小湊町沿岸に及ぶ地域にあった東条御厨は84年(元暦1)源頼朝が伊勢豊受宮に寄進した御厨である。このほか多多良荘(南房総市,旧富浦町多田良付近),長田保(館山市長田付近)があった。武士の活動としては,保元の乱のとき,安西,金余,沼平太,丸太郎が源義朝に従い院御所を攻めたことが《保元物語》に見える。1180年伊豆に挙兵して石橋山合戦に敗れた源頼朝は,真鶴岬から海上を安房国平北郡猟島(鋸南町竜島)に到着。当国の住人安西景益,丸信俊や上総国の平広常,下総国の千葉常胤らの支持を受けて再挙を図った。このとき長狭郡(鴨川市)の住人長狭常伴が頼朝の旅館の襲撃を企図して失敗している。頼朝は洲崎宮に祈願をこめ,300余騎を率いて安房より上総に入り,源氏再興の第一歩を踏み出した。こうして房総の武士は鎌倉幕府の創設に功をたてた。その後和田合戦に際しては,1213年(建保1)和田義盛の三男,朝比奈三郎義秀が鎌倉における父の死に当たり,500騎を船6艘に分乗させ,相模から安房に赴いており,安房は和田氏の拠点になっていた。47年(宝治1)相模の三浦泰村は,北条氏に排斥された前将軍藤原頼経に同情し,北条氏打倒を策して安房・上総の所領から甲冑を相模に運び,宝治合戦を起こして安達景盛に滅ぼされている(《吾妻鏡》)。また小湊出身の僧日蓮は,53年(建長5)清澄寺で法華宗を開いている。南北朝時代末に結城直光,その後に山内上杉憲方が守護となった。

 中世末期から近世初期にかけての安房国は,滝沢馬琴の《南総里見八犬伝》で名高い里見氏の根拠地となる。諸軍記類によると,1441年(嘉吉1)関東公方の再興を夢みて結城合戦に敗れた里見家基の子義実が,相模国三浦を経て当国白浜に来て房総里見氏の祖となった。そのころの長狭郡に東条氏,朝夷郡に丸氏,安房郡に神余氏,平郡に安西氏の4豪族が分立,義実は諸豪の対立関係を利用してこれを次々と滅ぼし,45年(文安2)安房一国を平定したと伝える。館山市鶴ヶ谷八幡に1508年(永正5)里見義通(義実の孫)造営の棟札があり,このころ里見氏の当国支配が確立したと思われる。義通の子義豊は叔父実尭に実権を奪われたとして実尭を恨み,33年(天文2)実尭の住む稲村城(館山市稲)を攻めてこれを殺した。実尭の子義尭は翌34年犬掛(富山町)で義豊と戦い,義豊を敗死させ,義尭が里見氏の主となった。その後義尭は上総国に進出して威を振るい,小弓(おゆみ)御所足利義明を支持して38年北条氏綱と下総国府台(こうのだい)(市川市)で戦ったが敗れ,義明は討たれた。義尭の子義弘は64年(永禄7)再度国府台で北条氏康と合戦して敗れ,これ以後の里見氏は南房総に局限された勢力を保つのみで衰勢に赴いた。義弘の甥義康は90年(天正18)館山に築城してこれに住んだが,この年豊臣秀吉の小田原征伐が起こり,義康は三浦に出兵して小田原への参陣に遅れ,秀吉の怒りを買い,上総・安房の分国中,上総を没収され,安房一国のみを保有することになった。1614年(慶長19)義康の子忠義のとき伯耆国倉吉に移封され,22年(元和8)嗣子なく断絶した。道興准后の《廻国雑記》に,1486年(文明18)の鴨川,小湊,天津辺海岸の風物が描写されている。

里見氏左遷以後の当国は譜代小藩の分立状態になった。1711年(正徳1)には北条藩主屋代忠位の家臣川井藤左衛門の圧政により万石騒動が起こったが,これは農民が勝利した一揆として名高い。27年(享保12)ころから享保改革の一環として長狭,平,朝夷3郡にまたがる嶺岡牧が幕府直轄で開かれた。嶺岡は古く里見氏の馬牧の地であったといわれる。西一牧,西二牧,東上牧,東下牧,柱木牧の5牧から成り,周囲67km,奥羽産の種馬が入り,洋馬の輸入も行われ,インド産の白牛も放牧された。近世初期には紀伊,伊勢,和泉等上方漁民の来漁が盛んで,これに刺激され,沿岸漁村の発展が著しく,外房天津・鴨川・和田等のイワシ漁,内房勝山の醍醐新兵衛による捕鯨が名高い(関東漁業開発)。幕末に及んで海防問題が起こり,1792年(寛政4)松平定信の房総豆相海岸巡視にはじまり,1810年(文化7)白河・会津2藩が幕命により相模・安房海岸に砲台を築き,42年(天保13)には今治藩が房総海岸の警備を命ぜられ,47年(弘化4)に会津・忍2藩が安房・上総の警備を命ぜられ,この年大房崎に砲台築造が決定するなど海防が強化され,53年(嘉永6)ペリーの浦賀来航となる。学界では稲葉藩儒新井文山,東条一堂門で長州藩士等と交遊した鳥山確斎等が出ており,元禄期の浮世絵師菱川師宣は保田(ほた)(鋸南町)の出身である。1701年(元禄14)総石高9万3886石余,村数272ヵ村(《内閣文庫本安房国郷帳》),1834年(天保5)総石高9万5736石余,村数280ヵ村(《内閣文庫本天保郷帳》),1804年(文化1)人口13万2993人(《吹塵録》)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安房国」の意味・わかりやすい解説

安房国
あわのくに

千葉県南部の旧国名。房州(ぼうしゅう)ともいう。東海道十五か国の一つ。『延喜式(えんぎしき)』の等級は中国で、遠国に属する。関東地方の南東部に位置し、浦賀水道を隔てて三浦半島と対する。北は鋸(のこぎり)山、清澄(きよすみ)山を境として上総国(かずさのくに)に接する。成務(せいむ)朝に阿波国造(あわのくにのみやつこ)が置かれ、応神(おうじん)朝に長狭(ながさ)国造が置かれた。平安時代の初め807年(大同2)の斎部広成(いんべのひろなり)著『古語拾遺(こごしゅうい)』によると、古く太玉命(ふとだまのみこと)の孫天富命(あめのとみのみこと)が四国の阿波(あわ)(徳島県)の斎部氏の一部を引き連れて東方に移動し、麻(あさ)・穀(かじ)を播殖(はんしょく)させ、その居所を安房郡と名づけたという。しかも天富命が太玉命を祀(まつ)った安房社がいまの安房神社(館山(たてやま)市大神宮)で安房国の一宮(いちのみや)である。

 現在の房総は古く「総国(ふさのくに)」と称したが、大化改新のとき、ほぼ半島を二分して南部を上総国、北部を下総(しもうさ)国とした。その後718年(養老2)5月になると、上総国の平群(へぐり)、安房、朝夷(あさひな)、長狭の4郡を分離して安房国を置いた。しかし安房国は741年(天平13)12月もとの上総国に併合されたが、757年(天平宝字1)5月ふたたび上総国から分立して安房国(現在の館山市と安房郡)を建て、その後は変化はなかった。国府は現在の南房総(みなみぼうそう)市、国分寺は館山市にあった。安房国府から京師(けいし)まで、上り34日、下り17日を要した。730年(天平2)の『安房国義倉帳(ぎそうちょう)』(正倉院文書)によると、同国内の一部に関するものであろうが、義倉粟(あわ)を納めた戸は戸数415戸のうち88、その内訳は中中戸2、中下戸3、下上戸3、下中戸11、下下戸69、ほかに納めない貧戸が327戸あった。平安末期には同国には荘園(しょうえん)が5荘、1保、2牧があった。平群郡の多多良(ただら)荘、安房郡の兵部(ひょうぶ)省の馬牧白浜牧、朝夷郡の伊勢(いせ)大神宮領丸御厨(まるのみくりや)、長狭郡の豊受(とようけ)宮領の東条御厨などである。

 1180年(治承4)源頼朝(よりとも)は挙兵に失敗し、伊豆から安房に逃れ、在地豪族の安西、丸、東条らや上総の平広常(ひろつね)、下総の千葉常胤(つねたね)の応援により再挙を図った。1253年(建長5)小湊(こみなと)出身の僧日蓮(にちれん)は清澄寺(せいちょうじ)で立宗、日蓮宗の開祖となった。南北朝時代末の守護は結城直光(ゆうきなおみつ)、その後山内(やまのうち)上杉憲方(のりかた)がその地位にあった。中世末から近世初期にかけて安房は里見(さとみ)氏の根拠地となった。すなわち、白浜を橋頭堡(きょうとうほ)とした里見義実(よしざね)は1445年(文安2)安房一円を平定、その後義堯(よしたか)のころ上総国にも力は及んだが、その子義弘(よしひろ)が1564年(永禄7)国府台(こうのだい)合戦で北条氏に敗れ、衰勢をあらわにした。近世に入り、1614年(慶長19)忠義のとき、幕閣の手により改易、伯耆(ほうき)(鳥取県)倉吉に追われ滅亡した。近世はおしなべて江戸のお膝元(ひざもと)の体制化に組み込まれ、代官、旗本領、譜代(ふだい)小藩の分立下にあった。藩領は、勝山(のち加知山(かちやま)。初め内藤氏、のち酒井氏)、北条(屋代(やしろ)氏)、東条(西郷氏)、館山(稲葉氏)などであった。1711年(正徳1)には屋代氏の失政により万石(まんごく)騒動が発生した。元禄(げんろく)期(1688~1704)の浮世絵師菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は当国保田(ほた)の出身である。近世を通じて、8代徳川吉宗(よしむね)の勧業政策の一環としての幕府の直轄牧たる嶺岡牧(みねおかのまき)の経営や漁業(鰯(いわし)漁、捕鯨)の発達にみるべきものがあった。花卉(かき)、ビワの栽培も近世後期に始まった。明治を迎え長尾、花房(はなぶさ)、館山、加知山の4藩があったが、1871年(明治4)廃藩置県により木更津(きさらづ)県管下となった。ついで1873年には千葉県管下となり、現在に至っている。

[川村 優]

『斎藤夏之助著『安房志』復刻版(1972・中島書店)』『川村優編『郷土史事典 12 千葉県』(1979・昌平社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「安房国」の解説

あわのくに【安房国】

現在の千葉県南部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の南房総市、国分寺は館山市におかれていた。1180年(治承(じしょう)4)に伊豆で挙兵し失敗した源頼朝(みなもとのよりとも)がこの地に逃れ、在地豪族の安西氏、東条氏らの援助で再挙をはかった。その後、結城(ゆうき)氏、上杉氏らが守護となったが、中世末期から近世初期にかけては、滝沢馬琴(たきざわばきん)の『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』で知られる里見氏が安房を制圧した。江戸時代、里見氏は伯耆(ほうき)国鳥取県)に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))、安房は4藩と幕府直轄領、旗本知行地に分割され幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により木更津(きさらづ)県に属したが、1873年(明治6)に木更津県と印旛(いんば)県が合併し千葉県となった。◇房州(ぼうしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安房国」の意味・わかりやすい解説

安房国
あわのくに

現在の千葉県房総半島南端にある。東海道の一国。中国。初め上総国の一部であったが,養老2 (718) 年安房国として独立。天平 12 (740) 年に再び上総国に合併。さらに天平宝字1 (757) 年,一国に独立。国府は南房総市三芳,国分寺は館山市国分御園にあった。『延喜式』には平群郡,安房郡,長狭郡,朝夷郡の4郡があり,『和名抄』には郷 32,田 4335町余が載っている。鎌倉時代の守護は明らかでなく,安西氏,神余氏,丸氏,東条氏の諸氏が分領したらしい。南北朝時代には斯波家長,結城直光,上杉憲方が守護であったとみられる。室町時代には上杉氏,戦国時代には里見氏が領有。豊臣時代には里見義康の支配が認められた。江戸時代には稲葉氏の館山藩,水野氏の北条藩,内藤氏の勝山藩,西郷氏の東条藩があった。明治4 (1871) 年の廃藩置県に際しては7月に加知山県,館山県,花房県,長尾県の4県となり,同年 11月に木更津県に合併。 1873年千葉県に編入。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安房国」の解説

安房国
あわのくに

東海道の国。現在の千葉県南部。「延喜式」の等級は中国。古くは上総国に属したが,718年(養老2)4郡をもって安房国となし,741年(天平13)再び上総国に合併,757年(天平宝字元)再度安房国となる。「和名抄」では平群(へぐり)・安房・朝夷(あさひな)・長狭(ながさ)の4郡からなる。国府は平群郡(現,南房総市),国分寺は安房郡(現,館山市)におかれた。一宮は安房神社(現,館山市)。「和名抄」の所載田数は4335町余。「延喜式」では調は布・鰒(あわび),庸は海松(みる)・布があり,中男作物として紅花・堅魚(かつお)・鰒など。平城京跡から多くの鰒貢進の木簡が出土する。平安中期には平忠常の乱により荒廃。石橋山の戦に敗れた源頼朝が上陸した。鎌倉時代には安西・丸氏らが支配した。日蓮の生国として知られる。室町時代には上杉氏が守護となり,のち里見氏が支配したが,国府台(こうのだい)の戦で後北条氏に敗れ,以後衰退。1614年(慶長19)里見氏は転封され,以後譜代小藩が分立,旗本領・幕領もあった。1871年(明治4)廃藩置県により木更津県に入り,73年千葉県に属した。

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百科事典マイペディア 「安房国」の意味・わかりやすい解説

安房国【あわのくに】

旧国名。房州とも。東海道の一国。今の千葉県南部。718年上総(かずさ)国から4郡をさいて分置。《延喜式》に中国,4郡。中世初期に三浦氏,後期に上杉氏,里見氏らが領有。江戸時代は譜代大名の小藩分立状態。
→関連項目関東地方千葉[県]

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