朝日日本歴史人物事典 「長谷川忠兵衛」の解説
長谷川忠兵衛
生年:生年不詳
近世初頭の徳川家康の側近代官。父は長谷川三郎左衛門藤直。諱を藤継,頓也。長崎代官,堺代官長谷川左兵衛藤広の弟。慶長4(1599)年長兄長谷川波右衛門重吉が佐渡鉱山に派遣されたとき,忠兵衛も同行して仕え,のち一時越後国村上(新潟県村上市)におもむく。次いで同11年兄左兵衛が徳川家康から長崎代官(一般に長崎奉行とのちの職名で呼称している)に任命され,長崎において外交および外国貿易の管理,キリシタンの動静調査などの重職を命ぜられたが,そのとき忠兵衛も兄を補佐した。また商売の代官として,茶屋又四郎(3代四郎次郎)と共に,長崎の役所に派遣された。その際,同14年のポルトガル船マードレ・デ・デウス号爆沈事件に功労を立てたという。大坂の陣(1614~15)前の徳川方の軍需物資の調達などに当たっていたが,さらに多田銀山(兵庫県)を奉行し,大坂の陣には家康の側近に仕えた。姉は家康の側室お夏の方である。その後病気になって退任。京都に住居した。<参考文献>中田易直『近世対外関係史の研究』
(中田易直)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報