ニュートン(読み)にゅーとん(英語表記)Sir Isaac Newton

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニュートン」の意味・わかりやすい解説

ニュートン(Sir Isaac Newton)
にゅーとん
Sir Isaac Newton
(1642―1727)

イギリスの物理学者、数学者、天文学者。いわゆる自然哲学者であるが、膨大な神学や錬金術の論稿・遺稿もあり、神学者とか最後の錬金術師とよばれることもある。

[井原 聰]

生涯

イングランド東部、リンカーンシャーのウールスソープに生まれ、12歳まで近隣の学校に学ぶ。母の知人の薬剤師クラーク家に寄宿してグランサムのグラマー・スクールに学び、1661年6月ケンブリッジトリニティ・カレッジに入学。1665年1月バチェラー・オブ・アーツの学位を得た。1667年マイナー・フェロー、1668年3月メジャー・フェローとなり、7月マスター・オブ・アーツの学位を取得した。ケンブリッジ時代のニュートンは「厭世(えんせい)的」と評される。それは、海外貿易や商業が盛んになり、大学の役割が変化し始めた時代に、旧態依然とした年功序列的な学内人事が横行し、退廃的生活に陥る教師や学生も少なくない大学に対するピューリタン的反動ともいえよう。

 1669年、師のI・バローを継いでルカス教授となり、光学を講義。1668年、1671年に反射望遠鏡を製作し、1672年王立協会会員となる。1686年、国王が大学の規定を侵害して、ベネディクト派の神父アルバン・フランシスAlbin Francisに学位を授与させ、ケンブリッジ支配の突破口にしようとしたとき、これに抵抗する大学の全権委員の一人として活躍、結果は国王の敗北となった。1688年、フランシス事件での断固とした姿勢を買われ大学代表の国会議員に選出され、1年間ロンドンに滞在。この間、ロックやピープスら、また政府高官とも知り合った。その後、ケンブリッジからの転進を図って就職運動を行うが、トーリー党が盛んな時代にホイッグ党のニュートンに適当な職はなく失敗、また『プリンキピア』出版(1687)後の虚脱感や反三位(さんみ)一体説の論文執筆(1690)をめぐる緊張などから、1693年にはうつ状態に陥った。

 1696年4月、大蔵大臣を務める教え子で友人のモンタギューCharles Montagu(1661―1715)の世話で造幣局監事に就任、1699年造幣局長官となる。贋(にせ)金作りを取り締まり、ハリーやロックらとともにモンタギューの貨幣改鋳事業を助けた。1700年には貨幣重量に厳しい正確さを求め、1717年には政府に助言して、1ギニー金貨が銀21シリングと決定され、これによってイギリスは実質的に金本位制となった。ニュートンはイギリス貨幣制度史上にも名を残した。1701年10月ルカス教授職、トリニティ・カレッジのフェロー職を辞任。同年ケンブリッジ大学選出国会議員。1703年王立協会会長に選出され、生涯その地位にあった。1705年ナイトに叙せられ、1710年グリニジ天文台監察委員長に就任。一生独身で、多くの栄誉に輝き、1727年、ロンドン郊外ケンジントンで病没。遺体はウェストミンスター寺院に葬られた。信仰のうえでは国教とは立場を異にし、ユニテリアンとしてひそかな信仰をもっていた。

[井原 聰]

科学上の業績

科学上の業績は、三大発見といわれる、光のスペクトル、万有引力、微積分(流率法)のほか、グランサム時代に寄宿していた薬剤師やその仕事場などから化学や錬金術に興味をもち、この分野の実験を続け、種々の合金をつくったり、熱の冷却法則(1701)など広範な分野の研究を行った。

[井原 聰]

光学

1663年ごろケプラーやデカルトの『屈折光学』を学び、レンズ、プリズム、鏡、望遠鏡、顕微鏡など光学研究用の器材を収集。1665~1666年にはレンズの研磨法、非球面ガラスの製作など光学実験の基礎的技術を習得したと思われる。1666年、最初のプリズム実験を行う。これは望遠鏡改良の基礎研究で、既知の球面収差の除去を目ざして非球面ガラスを自作し、さらに色収差が像のぼけの原因であることを発見し、その原因究明のため光の屈折によって生ずる光の分散を研究。その結果、白色光(太陽光)は屈折率が異なる単色光の複合からなると結論し、そのため色収差の除去は原理的に不可能という誤った断定をし、屈折式望遠鏡の改良には限界があるとした。そこでグレゴリーやカセグレンLaurent Cassegrain(1629ころ―1693)らの着想した反射望遠鏡を自作、1668年に長さ6インチ(約15センチメートル)、倍率約40倍の第1号を完成させた(現存せず)。1671年、さらに改良した口径2インチ(約5センチメートル)、38倍の第2号を完成して王立協会に提出した(同協会に現存)。さらに細隙(さいげき)による光の回折、薄膜による光の干渉現象の研究を展開。これらの研究は1672~1675年フックとの激しい論争をよんだ。ニュートン・リングとして知られる干渉縞(じま)実験では、明部と暗部の同心円状の環を精密に測定してフィッツ(発作)の理論を展開、図らずも光の周期性を反映した理論となった。また屈折率と物質の密度の研究から化学的組成を類推することも行った。

 こうした光学的現象の解明や問題提起とともに、光学実験技術の確立という点でも評価される。代表的論文・著書として『光学講義』(1669~1672年ルカス講義、1728年刊)、「光と色の新理論」(1672)、「光と色の理論」(1675)、『光学』Opticks(1704)などがある。

 18世紀末の光の粒子論、19世紀前半に確立する波動論の立場からニュートンを粒子論者とする見方もある。確かに光の直進性から波であることを否定しているが、ほかでは粒子論的説明に固執していない。むしろ光の本性を事実に基づき解明するため、定量的方法の手掛りをつかもうとしている。視線と光線を区別したデカルトの研究のうえに、幾何学から光を客観的な実在物としてその本性を解明する物理光学的段階に前進させたことに彼の研究の特徴がある。

[井原 聰]

数学

数学研究は光学研究とほぼ同時代に開始され、1665年、無限小の概念に基づく微分法を発見、夏には流率法の概念を確立し、1666年流率法に関する「10月論文」を仕上げた。1669年「無限級数の方程式による解析について」をバローに示し、1671年「流率法と無限級数」を著した。この論文が発表されるのは、彼の最愛の弟子ともいえるファシオNicolas Fatio de Duillier(1664―1753)が1699年にライプニッツの微分法をニュートンからの剽窃(ひょうせつ)であると非難したのちの、1704年の『光学』の付録「求積論」に至ってのことである。1705年以後、ベルリン科学アカデミー初代会長ライプニッツと王立協会会長ニュートンとの優先権論争がその威信をかけた形で行われ、1716年ライプニッツの死で論争は終わった。ニュートンはケンブリッジの学生時代デカルトの『哲学原理』やスホーテンFrans van Schooten(1615―1660)の数学のテキスト、オートレッド、ウォリスさらにはフェルマーの数学書や論文集に数学を学び、二項定理の研究から無限級数の研究に進み、流率法を着想したとみられる。

[井原 聰]

力学

この分野の基本的構想が生まれたのはロンドンにペストが流行した1665~1668年、通算約2年間故郷に避難した期間である。リンゴの実の落下を見て重力の法則を発見したという話は、故郷の農場でのこととされるが真偽はさだかでない。この話の出所はニュートンの伝記作家スチュクリーWilliam Stukeley(1687―1765)にニュートンが語ったことからといわれ、また一説には『プリンキピア』をフランスに紹介したボルテールともいわれる。

 ニュートンの動力学研究は1664年ごろデカルトの『哲学原理』、ガリレイの『新科学対話』などの研究から開始された。1661年ぐらいまでにデカルト、ホイヘンス、レン、フックらによって確立された弾性衝突論の成果にたって、非弾性衝突の理論的研究を進め、ついで球に内接する多角形の各頂点で反発されていく運動の極限として円運動を取り上げ、遠心力の理解へと進み、これとケプラーの第三法則とを結合して逆二乗則の導出に成功したと考えられる。

 ニュートンは力学研究の成果を発表しないでいたが、光学論争後にフックが王立協会書記として「とくに遊星の天体運動を、接線の方向に沿った直線運動と中心体に向かう吸引運動との複合とみる見解について、貴見をお漏らしくださるなら光栄の至りに存じます」と、投稿を求めた。1687年それまでの研究をまとめ、ハリーの尽力で有名な大著『プリンキピア』Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(『自然哲学の数学的原理』)を出版した。

 マニュファクチュアの全時代を通じて技術上の主要な課題は機械的課題であった。たとえば水上輸送の領域では、船舶の積載量、速度、安定航行、操舵(そうだ)性能、運河網・水門の整備などの課題は、浮力をはじめ抵抗媒質中での物体の運動法則や潮汐(ちょうせき)現象の解明を必要とし、流体の流出、水の圧力と流出速度との関係など流体静力学・動力学的研究を促した。鉱山業の領域では深い坑底からの揚水、巻き揚げ、換気、鉱石粉砕機械などでは各種滑車、輪軸、てこ、くさび、螺旋(らせん)など単純な力学的機械の解明が求められ、ふいごやポンプは流体動力学上の課題を提起していた。水車や風車など自然力の利用は力学的現象を対象化し、人間の筋肉力と等価の関係を、つまり人間労働を仕事の量で定量し、自然の諸力と比較しうる可能性を開くものであった。軍事的領域では砲弾や火器が、物体の自由落下、放物体の運動、作用・反作用、衝突問題を、機械や土木建築用資材は材料力学上の問題を提起しており、レオナルド・ダ・ビンチの時代以後、こうした課題に対する研究成果が蓄積されていた。これらを総集するものとして天体と地上の力学の統一的体系化が可能となった時代、それがニュートンの力学の出現を準備したのである。とはいえニュートンは神の一撃を許し教会との妥協を図ることで彼の拠(よ)ってたつ社会を擁護する立場も鮮明である。この時代の支配的なイデオロギーに深く影響されていることも見落としてはならない。

[井原 聰]

『河辺六男編『世界の名著31 ニュートン』(1979・中央公論社)』『吉仲正和著『ニュートン力学の誕生』(1982・サイエンス社)』『S・I・ヴァヴィロフ著、三田博雄訳『アイザク・ニュートン』新装版(1985・東京図書)』『ゲッセン著、秋間実他訳『ニュートン力学の形成』(1986・法政大学出版局)』『島尾永康著『ニュートン』(岩波新書)』


ニュートン(Helmut Newton)
にゅーとん
Helmut Newton
(1920―2004)

ドイツの写真家。ベルリンに生まれる。裕福なボタン製造業者の家に育ち、ファシズム体制下のドイツで「水泳と女の子と写真にばかり関心をもつ」自堕落な青春時代を過ごす。1936年ドイツの女性写真家イーバYva(本名エルス・ジーモンElse Simon。1900―1942)のアシスタントとなり、本格的に写真を学ぶ。1938年シンガポールで新聞社の専属カメラマンとなるがすぐに解雇され、オーストラリアに移る。1940年から5年間兵役についたあと、メルボルンに写真スタジオを開き、1948年にジューン・ブラウンJune Brawne(1923―2021)と結婚(結婚後はジューン・ニュートンJune Newton)。ジューンはのちにアリス・スプリングズAlice Springsと名のって写真家となり、彼に大きな影響を与えるミューズの一人となった。

 1958年にパリに移り、ファッション写真を中心に活動するようになる。以後、『ボーグ』『エル』『ジャルダン・デ・モード』Jardin des Modesをはじめとして、多くのファッション雑誌に作品を提供し、時代のテイストをつくりだす重要な写真家の一人となった。

 彼が自らの性的な嗜好(しこう)を写真に強く投影するようになったのは、1977年の写真集『ホワイト・ウィメン』White Womenからである。この写真集には、その後のニュートンの写真集にもたびたび登場するボンデージ(身体の束縛、拘束)のようなSM的行為、男女の性の倒錯、窃視症的な視線、暴力と死のにおいなどの要素がたっぷりとちりばめられていた。同時に、その倒錯的なエロティシズムと、長身で肩幅の広い、北欧の女神を思わせる堂々たる肉体をもつ女性への執着が表現されたヌードやポートレートは、ファッション写真の枠組みを越えて注目され、1980年代以降は世界各地の美術館やギャラリーで数多くの個展が開催された。それまでの着せ替え人形的なファッション写真の世界に、生々しく、直接的なエロティシズムを持ち込んだニュートンの仕事は、多くの模倣者を生むほどの反響をよんだ。

 1980年代以降になると、ニュートンは彼好みの大きな女性たちを撮影した『ビッグ・ヌード』Big Nudes(1981)、有名女優やモデルたちをスキャンダラスなイメージに封じ込めた『ポートレーツ』Portraits(1986)、使用済みのポラロイド写真をコレクションした『ポラ・ウーマン』Pola Woman(1992)などの問題作を次々に刊行し、美術館などでも大きな展覧会を開催できる写真家としての評価を高めていく。『夜のアルシーブ』Archives de Nuits(1992)に代表されるように、その作品は1990年代以降さらに冷笑的で暴力的な傾向を強めた。

 なお、1993年(平成5)に女優石田えり(1960― )をモデルに写真集『罪』を撮り下ろすなど日本との関係も深く、「ヘルムート・ニュートン写真展」(2002、大丸ミュージアム、東京)など展覧会もたびたび開催された。

[飯沢耕太郎]

『『ヘルムート・ニュートン写真集――Big Nudes』(1991・リブロポート)』『『罪』(1993・講談社)』『『ヘルムート・ニュートン写真集――ポラ・ウーマン』『夜のアルシーヴ』(ともに1994・リブロポート)』『『ヘルムート・ニュートン写真集』(2002・タッシェン・ジャパン)』『Portraits; Photographies Prises en Europe et Amérique (1986, Nathan, Paris)』『飯沢耕太郎著『写真とフェティシズム』(1992・トレヴィル)』


ニュートン(年譜)
にゅーとんねんぷ

※月・日はユリウス暦
1642 10月 父アイザック没。12月25日、ウールスソープに生まれる
1654 グラマー・スクールに入学
1661 トリニティ・カレッジに入学
1665 トリニティ・カレッジ卒業。無限小の概念に基づく微分法発見。流率法の概念確立。万有引力の発見
1666 「10月論文」。光学実験
1668 マスター・オブ・アーツとなる。反射望遠鏡製作
1669 10月 ルカス教授に就任。光学を講義
1671 「流率法と無限級数」
1672 ロイヤル・ソサイエティー会員。「光と色の新理論」。フックとの論争始まる
1675 「光と色の理論」。ライプニッツ、微分積分法を発見
1676 フックから和解の手紙
1679 母ハナ没。フックから誘いの手紙。ケプラーの第一・第二法則を証明し、逆二乗則を導く
1684 ハリー、ニュートンを訪問
1686 アルバン・フランシス事件。ニュートンも大学の全権委員として裁判所に出頭。『プリンキピア』第1部の原稿をロイヤル・ソサイエティーに提出
1687 『プリンキピア』第2部・第3部の原稿をロイヤル・ソサイエティーに提出。『プリンキピア』刊
1688 大学代表の国会議員となる
1693 秋に強いうつ病にかかる
1696 造幣局監事となる
1699 造幣局長官となる。ファシオがライプニッツを非難
1701 ルカス教授職とトリニティ・カレッジのフェローを辞任。ケンブリッジ大学選出国会議員となる
1703 ロイヤル・ソサイエティー会長になる
1704 『光学』刊(付録に「求積論」)
1705 ナイトに叙せられる。ライプニッツ、匿名で『光学』を論評
1710 ニュートン門下のキールがライプニッツを批判
1716 ニュートンとライプニッツの間で往復書簡。ライプニッツ没
1717 政府、1ギニー金貨を銀21シリングとする
1727 3月20日、ニュートン没
1728 『光学講義』刊


ニュートン(力の単位)
にゅーとん
newton

国際単位系(SI)における力の単位で、MKS単位系の力の単位でもある。記号はN。1キログラムの質量の物体に働いて、毎秒毎秒1メートルの加速度を生じさせる力と定義されている。10分の1メガダインにあたり、また、0.10197重量キログラムに相当する。1904年、ロバートソンによって提案され、名称はイギリスの数学者・物理学者のニュートンにちなむ。固有の名称と記号をもつSI組立単位の一つである。1960年に国際単位系の力の単位となった。日本はこれより先、1951年(昭和26)の計量法で採用している。

[小泉袈裟勝・今井秀孝]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニュートン」の意味・わかりやすい解説

ニュートン
Newton, Sir Isaac

[生]1642.12.25. リンカーンシャー,ウールズソープ
[没]1727.3.20. ロンドン
イギリスの数学者,物理学者,天文学者。農家に生れ恵まれない少年時代をおくったのち,叔父の助力でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業 (1665) 。 1665年のペストの流行で一時帰郷。この間に二項定理,微分法の発明,光と色の性質に関する研究,反射望遠鏡の発明のほか,万有引力の基本的着想を得たといわれる。 67年ケンブリッジに戻り,師 I.バローを継いでルーカス数学教授に就任 (69) 。ロイヤル・ソサエティ会員 (72) 。国会議員 (88) 。造幣局長官 (99) をつとめ,大学を辞める (1701) 。 1705年ナイトの称号を授かる。ケプラー,ガリレイ,ホイヘンスらの 17世紀力学,天文学の主要業績を包摂し,絶対時空間の概念,運動の法則,万有引力の法則を基礎とする普遍的力学理論体系 (古典力学) を構築,主著『プリンキピア』 (1687) として公刊,近代の数学的自然科学のモデルとして科学史上最大の業績を打立てた。一方 1672年に発表した,白色光は種々の色光が混成したものであり,各単色光はそれぞれ物質に対して一定の屈折率と反射能を有するという考えは,従来の光学概念を根底から変えたばかりでなく,彼の化学 (ないし錬金術) の実験的研究と結びついて,自然物体の色を通して物体の微細構造を解明しようとするものであった。彼は薄膜干渉色の数学的研究 (ニュートンリングの研究として知られる) から光の周期的性質を明らかにし (75~76) ,さらに光と物質,あるいは物質粒子間の相互作用の問題を中心に据えて光学・化学現象の研究を発展させ,大著『光学』 (1704) にまとめた。特に巻末に付された「疑問」は,18世紀科学者への広範で実り豊かな問題提起として,実質的には『プリンキピア』より大きな影響を与えたともいえよう。晩年はロイヤル・ソサエティ会長 (03) として多くのすぐれた弟子を育てるとともに,神学,聖書年代学の研究にも没頭した。

ニュートン
Newton, Helmut

[生]1920.10.31. ワイマール共和国,ベルリン
[没]2004.1.23. アメリカ合衆国,カリフォルニア,ロサンゼルス
ファッション写真家。大胆で刺激的,そしてセクシーな作風で異彩を放った。ベルリンの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。1938年,台頭してきたナチスの迫害を逃れてシンガポールへ脱出,その後オーストラリアに移る。1947年に市民権を得,1948年にオーストラリアの有名女優でモデルのジューン・ブルネルと結婚した。1956年からはロンドン,その後パリへと拠点を変えながら活躍を続け,1970年代以降『エル』や『マリ・クレール』などの雑誌を舞台に長身の女性モデルを多用し,サディスティックでフェティッシュなイメージや退廃的なエロティシズムが漂う挑発的な作品を続々と発表,世界のファッション写真界で第一人者の地位に上りつめた。

ニュートン
Newton, Sir Charles Thomas

[生]1816.9.16. ヘレフォード,ブレドワーダイン
[没]1894.11.28. ケント,マーゲイト
イギリスの考古学者。オックスフォード大学を卒業後,1840年に大英博物館の考古学室の助手となったが,52年に辞任し,小アジア地方の調査を目的に,レスボス島のミティリニに副領事として赴任した。スタッフォード卿の後援のもとに多くの発掘を行い,ハリカルナッソスのマウソレウム遺跡を発見。アナトリア各地で調査し,多くの収蔵品をイギリスにもたらした。 62年に大英博物館の初代ギリシア・ローマ室長となり,80~88年ロンドン大学考古学教授をつとめた。

ニュートン
Newton, John

[生]1725.7.24. ロンドン
[没]1807.12.21. ロンドン
イギリスの低教会系の聖公会司祭。賛美歌作家。 18世紀イギリスの信仰覚醒運動の一指導者でもある。正規の教育を受けることなく水兵や奴隷売買をしていたが,1747年回心を経験。独学ののち 64年にオルニーの助任司祭に任じられ,親友の詩人 W.クーパーとともに『オルニー賛美歌集』 Olney Hymns (1779) を共作。著書に『魂の声』 Cardiphonia (81) がある。

ニュートン
Newton

アメリカ合衆国,マサチューセッツ州東部,ボストンの西に接する都市。 17世紀中頃,チャールズ川沿いに入植が始り,19世紀中頃,ボストンからウースター (現ペンセントラル) まで鉄道が敷かれて郊外の住宅地となった。丘陵地で 14の集落をもつ田園都市である。市内の限られた地区に,繊維,ゴム,プラスチックなどの工場がみられる。また,アンドーバー・ニュートン神学校 (1808創立) をはじめ,多種のカレッジがある。人口8万 2585 (1990) 。

ニュートン
Newton, John

[生]1823.8.24. バージニア,ノーフォーク
[没]1895.5.1. ニューヨーク
アメリカの軍人,工兵将校。陸軍士官学校を卒業後,1842~61年アメリカ沿岸の防備工事や砦の建設に従事。南北戦争中は北軍将校としてフレデリックスバーグ,チャンセラーズビル,ゲティスバーグなどの戦いで活躍。 86年に退役しパナマ鉄道社長となった。

ニュートン
Newton

アメリカ合衆国,カンザス州中部の都市。 1871年に発足し,71~73年の間テキサスからカウボーイたちによって送られたウシを貨車積みする駅となった。 70年代にロシア人移民が持込んだコムギの品種が,カンザス州の主要作物となった。現在はコムギ地帯の中心都市で,鉄道修理工場,食品加工,製粉などの工場がある。人口1万 6700 (1990) 。

ニュートン
newton

力の SI 組立単位。記号は N 。 1N は質量 1kg の物体に働いて加速度 1m/s2 を与える力で,1N=1kg・m/s2 である。単位名は I.ニュートンの名にちなむ。

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