長崎(読み)ながさき

精選版 日本国語大辞典 「長崎」の意味・読み・例文・類語

ながさき【長崎】

[一] (鎌倉時代、長崎氏が地頭となってから呼ばれた) 長崎県南部の地名。県庁所在地。長崎半島の基部にあり、深く湾入した良港をもつが、平地は狭い。元亀二年(一五七一)ポルトガル船の入港以来貿易港・キリシタン伝道地となる。豊臣秀吉の統一以来直轄地となり、江戸時代は唯一の開港場として繁栄。古くから漁業基地としても知られ、水産加工場も多く、日本屈指の水産都市。また造船所もある。大浦天主堂グラバー邸・唐人屋敷・出島オランダ商館跡・唐寺崇福寺などがある。昭和二〇年(一九四五)八月九日、原子爆弾が投下され、市街地の北半部が破壊された。明治二二年(一八八九)市制。永埼。崎陽(きよう)

ながさき【長崎】

姓氏の一つ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「長崎」の意味・読み・例文・類語

ながさき【長崎】

九州地方北西部の県。もとの肥前の西半部と壱岐いき対馬つしま2国にあたる。人口142.7万(2010)。
長崎県南部の市。県庁所在地。元亀2年(1571)ポルトガル船寄港以来発展し、鎖国時代は唯一の外国貿易港として繁栄。昭和20年(1945)8月9日、原子爆弾が投下され被災。造船・水産業が盛ん。浦上天主堂グラバー邸などがある。平成17年(2005)周辺6町を、平成18年(2006)に琴海町を編入。人口44.3万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「長崎」の意味・わかりやすい解説

長崎[市] (ながさき)

長崎県南西部にある市で,県庁所在都市。2005年1月旧長崎市が伊王島(いおうじま),香焼(こうやぎ),三和(さんわ),外海(そとめ),高島(たかしま),野母崎(のもざき)の6町を編入,さらに06年1月琴海(きんかい)町を編入して成立した。人口44万3766(2010)。

長崎市南西部の旧町。旧西彼杵(にしそのぎ)郡所属。人口1035(2000)。長崎市の南西海上10kmの沖合に横たわる伊王島,沖之島両島からなり,両島は橋で結ばれている。標高100m前後の山地が多く,平地に乏しい。かつては半農半漁の寒村であったが,1941年に日鉄伊王島鉱業所によって海底炭田の採掘が開始され,以来炭鉱の町として発展した。しかし,72年に炭鉱は閉山され,最盛期に7792人を数えた人口は激減し,現在もなお減少を続けている。旧長崎市に近接する利点を生かして観光開発に力を入れ,地域活性化を図っている。伊王島の北端にある伊王島灯台は,1866年(慶応2)全国8ヵ所に設置された日本初の公式灯台の一つである。

長崎市北端の旧町。旧西彼杵郡所属。1969年町制。人口1万2507(2005)。大村湾に面し,西彼杵半島の基部に位置する。町の西部には飯盛山系の丘陵が連なり,急傾斜した東斜面を刻んで大小の河川が大村湾に注いでいる。全町が起伏のある丘陵地帯にあり,棚田や段々畑が多く,平地は狭小である。人口は1955年以降減少を続けたが,南部地区に住宅団地ができた72年ころから増加傾向に転じている。主産業は農業で,ミカンを主体とする複合経営が多い。1955年ころまで全就業者の80%を占めていた農業就業者も大きく減り,旧長崎市の近郊農業地域として転換しつつある。一時盛んであった真珠養殖業は生産を減じながらも行われている。

長崎市南西部の旧町。旧西彼杵郡所属。1961年町制。人口4512(2000)。かつては長崎湾に浮かぶ香焼島を町域としたが,香焼と対岸の深堀との間の海面が埋め立てられ,旧長崎市南西部と陸続きになった。明治以降,良質炭を産出する炭鉱の町として発展し,川南造船所もあって第2次世界大戦中は繁栄したが,戦後,造船所が倒産し,炭鉱も1964年に閉鎖され,一時は2万人をこした人口も5000人を割るまでに減少した。72年に三菱重工業長崎造船所の香焼工場が進出し,100万トンドックが完成して再び造船の町となった。

長崎市南部の旧町。旧西彼杵郡所属。人口1万2366(2000)。長崎半島の中央部,旧長崎市の南に位置する。半島中央部には山地が連なり,平地に乏しい。基幹産業は農漁業で,農業ではビワ,ミカン,野菜などの栽培が行われ,特に茂木ビワは全国的に有名。為石,蚊焼両漁港を基地に沿岸漁業が行われるが,近年大型養殖漁場も整備された。旧長崎市や旧香焼町への通勤者も多く,大規模住宅団地の建設が進められ,人口は増加傾向にある。東西の海岸は野母半島県立自然公園に含まれ,夏季は海水浴場としてにぎわう。

長崎市北西端の旧町。旧西彼杵郡所属。人口7405(2000)。西彼杵半島の南西部,旧長崎市の北西に位置し,南西部は角力(すもう)灘に面する。西方の海上に浮かぶ炭鉱の島池島も町域に含まれる。中心集落の神浦(こうのうら)は漁港で,神浦川の上流に神浦ダムがあり,旧長崎市へも給水している。1959年海底炭田の池島炭鉱が出炭を開始して以来,従来の半農半漁の町から石炭産業主体に転換した(池島炭鉱は2001年11月閉山)。半島部では,農漁業が主産業であるが,労働力の流出が続き,過疎化に悩んでいる。南部の出津(しつ),黒崎地区には隠れキリシタンゆかりの集落が多く,明治初年に来日したフランス人ド・ロ神父の記念館などがある。海岸一帯は西彼杵半島県立自然公園に含まれる。
執筆者:

長崎市南西部,長崎半島の西沖合に浮かぶ高島,端島(はしま)(軍艦島),中ノ島,飛島の4島からなる旧町で,西彼杵郡に属する。高島以外の島は無人島で,高島は面積わずか1.36km2の石炭の島である。人口900(2000)。1695年(元禄8)鍋島家の下僕であった深堀村(長崎半島西岸)の五平太が野焼きをしているとき,黒い石が燃えるのに気づき,この燃える石(石炭)の採掘を行ったのが高島炭田の始まりといわれる。後にこの事業は佐賀藩営となり,石炭は瀬戸内各地の製塩用燃料として出荷された。明治に入ってからは端島鉱とともに三菱の経営となり,最盛期には人口2万人をこえた。しかし端島鉱は1974年に閉山,86年には高島炭鉱の閉山により人口は激減した。町の活性化のため,磯釣り公園を目玉にした観光の島づくりを進めている。島には20戸の漁家がいるが,タコ,フグなどの漁獲をあげる専業の漁家はわずかで,多くは遊漁を営む。旧長崎市大波止桟橋から島まで定期船で約1時間を要する。

長崎市中央部,長崎半島の基部に位置する旧市で,県庁所在都市。1887年市制。人口42万3167(2000)。幅1km,奥行き4km,平均水深18mのリアス式湾入の長崎湾を抱くようにして山腹の急斜面にまで市街地が発達し,周縁部は金比羅(こんぴら)山,稲佐山など標高400m前後の長崎火山地によって囲まれている。おもな河川は南から大浦川,中島川,浦上川があり,いずれも小河川で沖積平野の発達は悪く,市街地にみられるわずかな平たん地のほとんどは,河口付近に形成された埋立地である。湾の東岸にある中心市街地は16世紀末,長崎港にポルトガル船が入港して以来,港町として,またキリシタン伝道の中心として発展し,鎖国時代においても日本で唯一の貿易港として栄えた。明治以降県庁がおかれ,政治・経済・文化の中心として市域は拡大し,人口が増加していった。1923年以来,第2次大戦中まで長崎港と中国の上海との間に日華連絡船が就航していたが,戦後は内外貨物船の寄航地として,また離島航路の基地としての役割を保持しているものの戦前の活況はみられない。2000年現在,市の産業別人口の割合は第1次産業2%,第2次産業21%,第3次産業77%で,第3次産業の増加が目だち,なかでも卸・小売業とサービス業の占める割合が高い。中心商店街が都心部の浜町および観光通りにあり,隣接する銅座町,新地町,籠(かご)町は各種料理店,バー,クラブなどの多い歓楽街を形成している。この東に続く丸山町,寄合町一帯は,かつて丸山と呼ばれる花街だったところで,長崎貿易に集まる商人たちを相手に繁栄し,江戸の吉原,京の島原とともに広く知られた。

 工業は幕末に起源をもつ造船業が,湾の西岸に建設された三菱重工長崎造船所を中心に発展し,明治,大正,昭和にわたって市の経済を支えてきた。第2次大戦末期に投下された原子爆弾によって湾奥の浦上地区を中心に大きな惨禍をうけたが,その後市は造船業や水産業などの発展により復興した。1973年の石油危機と急激な円高の影響をうけ,造船不況が顕著になってからは火力発電用タービン,ボイラーなど機械部門の生産に力を入れるとともに,付加価値の高い船舶づくり,そして徹底したコストダウンのための合理化に努力し市の基幹産業として重要な役割を果たしている。伝統産業としては,カステラ製造,べっこう細工がある。前者は観光客の増加に伴い順調な発展をみせるが,後者は原材料のタイマイの入手難が予想され,前途に不安がもたれる。水産業は古くから豊富な水産資源に恵まれ,以西底引網漁業や大・中型まき網漁業などの海面漁業の基地として発展してきたが,長崎湾奥にある漁港が手狭になったため,市北西部の三重地区に水産加工団地を伴った新長崎漁港を建設し,1989年開港した。また東部の茂木(もぎ)港では小型底引網漁業が,戸石ではタイ,ハマチの養殖が行われている。農作物では,茂木一帯で栽培されるビワが有名である。

 日本の西端に位置する長崎は,首都圏をはじめ日本各地との交通網の整備が課題である。JRについては,博多駅と結ぶ長崎本線の複線化あるいは新幹線の建設が望まれ,航空路については,市内と長崎空港(大村市)とのアクセスの一層の改善が期待される。市街地の交通は,無公害型の路面電車が100円均一料金で運行し人気を得ているが,地形的要因から都心集中型の道路網となり,幹線道路は日常的に渋滞している。バス交通はよく発達し,国道34号,202号,206号,251号線などにより諫早,大村,佐世保,雲仙,島原など県内各地と結ばれている。長崎自動車道のインターチェンジがある。観光資源に恵まれ,内外から多くの観光客を集めているが,最も親しまれているのは,市街地南東部にある国宝の大浦天主堂と,近くのグラバー園である。グラバー園は,幕末・維新期のイギリス商人グラバーの旧邸を核として,旧リンガー住宅旧オルト住宅(いずれも重要文化財)などの洋館が配置された長崎の明治村といわれる庭園(1974完成)で,ここからは長崎造船所のドックや長崎港が一望できる。また,中国福建省出身の人たちが建立した唐寺崇福(そうふく)寺には,国宝の大雄宝殿と第一峰門がある。1634年(寛永11)興福寺住職の如定(によじよう)禅師が中島川に架けた眼鏡(めがね)橋(重要文化財)は,日本最古の石橋であるが,1982年7月に長崎を襲った集中豪雨により一部破損した。ほかに国の史跡として江戸時代オランダ人居留地であった出島のオランダ商館跡,日本の青年たちに医学を講じたシーボルト宅跡がある。一方,浦上地区には原子爆弾による惨禍を伝える〈原爆落下中心碑〉や国際文化会館,長崎大学などがある。年中行事としては,4月の稲佐山のハタ(たこ)揚げ,6月に長崎港内で行われるペーロン競漕,10月の諏訪神社の例祭〈おくんち(お九日(おくんち))〉などが全国的に有名である。
執筆者:

中世末の長崎は,大村氏に属する在地土豪長崎甚左衛門純景970石の所領で,城下からやや離れた半農半漁の寒村であった。これがポルトガル貿易をめぐる平戸松浦(まつら)氏と大村氏らとの確執の結果,安全な避難港として開港されることになり,1571年(元亀2)最初のポルトガル船が入港し,麦畑をつぶして大村,島原,平戸,横瀬浦,外浦,文知の6町が町立てされた。以来マカオからの大船が定期的に入港し,80年(天正8)大村純忠が長崎と茂木の地をイエズス会に寄進すると,ポルトガル貿易をほぼ独占した教会領長崎では,教会の軍事・行政権のもとに,すべてキリシタンである住民は,数人の牢人を〈頭人〉とする植民地的自治都市を形成した。豊臣秀吉は88年九州平定の帰途,有馬晴純が教会に寄進していた隣接の浦上村とともに収公し,はじめは佐賀藩の鍋島直茂に預けて長崎代官支配地としたが,92年(文禄1)腹心の唐津藩主寺沢広高を初代長崎奉行に任じ,以後明治維新にいたる支配の原型ができ上がった。すなわち,奉行支配の天領長崎は〈市〉と〈郷〉から成るが,市はこのときまでに23町をかぞえる地子免除の〈内町〉で,高木,高島,町田,後藤の,〈頭人〉あらため〈町年寄〉が管し,各町には乙名(おとな)をおいた(その下の組頭は寛永期か)。一方,郷である長崎・浦上両村,高3435石余は長崎町人の村山等安(1616年以降は末次平蔵)を代官として年貢徴収にあたらせたが,長崎村のうち内町隣接地はしだいに市街化して,1642年(寛永19)までに出島を含む43町の地子を納入する〈外町〉として市に編入された。代官廃止期(1676-1739)の郷地は町年寄が兼管した。

 市中人口は,開港当時1500人,豊臣秀吉期には数千人といわれるが,江戸幕府初頭の朱印船・唐船貿易の奨励,教会活動の黙許などにより急増し,1616年(元和2)に2万4693人,26年には約4万人となり,そのほとんどがキリシタンであった。1614年(慶長19)日本イエズス会本部をはじめ,各派11の教会やセミナリヨコレジヨが幕府の手によって破壊され,その跡地は奉行所,代官屋敷,仏寺などに変わったが,なお鎖国までは,ヨーロッパ諸国の冒険商人,明末の混乱を避けた中国人,文禄・慶長の役で日本各地に連行されたまま帰国の途を失った朝鮮人などの外国人が定住していた。多くは日本人を妻とし,船宿,通詞(つうじ)(通訳),水先案内,医師,諸細工,日雇い,遊女などで,婚姻,職業,土地所有,内外通交などについて特別の制限はなかったようである。ことに中国人は来航者が急増して,稲佐に専用の共同墓地を設け,また出身地別に興福寺(南京地方),福済寺(泉州,漳州),崇福寺(広東)のいわゆる唐寺を建立し,唐僧を招いて住持とした。そのほか来航者には南アジア,インド洋水域のイスラム商人もあり,日本と世界各地の産物が集散する国際都市であった。外国系の言語,食物,遊戯がもてはやされ,眼鏡橋に始まる中国系の石橋群の出現以前には,ヨーロッパ風の屋根付きの木橋が多かった。

 寛永鎖国の結果,朱印船などによる日本人の出入国の最大の窓口が閉ざされ,1636年,市内ポルトガル人の出島集住,同国人および妻子287人のマカオ追放,39年ポルトガル貿易禁止,41年空屋になった出島へ平戸オランダ商館の移転がなされ,一方,来航の中国人も新規の定住は禁じられ,半世紀後の89年(元禄2)には唐人屋敷に収容されることになった。こうした外国人隔離策と並行して,踏絵,寺請制度を伴う五人組を単位とする宗門人別改制度が,寛永末期に全国にさきがけて確立した。元亀開港以来,無秩序に発展した都市景観を一変させたのは〈長崎回禄〉とよばれる1663年(寛文3)の大火で,全66町のうち63町が被災した。これを機に道幅を広め,負担や貿易利銀の均等化の意味からも大町を2,3町に割って,明治期にいたる内町26,外町54の近世長崎80町制が確立した。すなわち長崎町人の諸負担は,まず公役として,海側の30町では船手役として役人の通船や水主役(かこやく),山沿いの47町では陸手役として奉行所要の馬,人足を負担し,ほかに奉行への八朔銀,歳暮銀,目付など出張幕吏の宿賃,諸役所の普請・雑用銀,芥捨て・湊浚い賃などを負担した。町役としては,唐船1艘につき,各町が順番で宿町・付町となり,宿泊,荷役,取引出納などに当たり,ほか町預りのための賄(まかない)料,番人給銀,各町の役人(乙名,組頭,日行使,宝役,町火消,門番,借屋惣代)の給銀,雑用銀などである。これらの諸負担に対し,貿易の利銀もまた町単位で支給され,各町内では屋敷地およそ60坪見当を1箇所と定め,〈箇所〉を単位に配当した。例えば1690年内町の一つである平戸町では,1箇所持ちの町人は平均銀1貫090匁の負担額に対し,2貫062匁の配当があった。この箇所銀(かしよがね)に対し,借屋人も少額ながら1世帯ごとに竈銀(かまどがね)の配分があり,この中から芥捨て賃,溜番賃などの公租を納めた。こうした貿易利銀は,外国側と内地商人との間に独占的に介在した,長崎奉行,町年寄管下の市法会所や長崎会所の関税的な取引収益によるもので,人口は1696年に最大の6万4523人に達し,その後は貿易の停滞を反映して1715年(正徳5)に4万1553人,71年(明和8)以降3万人をわずかに上下しながら維新を迎えた。

 行政組織は,その確立期にあたる1708年(宝永5)には,奉行4人(在府2,在勤2。毎年9月に長崎で交代)のもとに御用物方(元町年寄の高木氏)以下地役人97人,奉行所付き81人,番方(町使,散使,唐人番,船番など)201人,町年寄6(うち2人は地方支配),各町の乙名,組頭,日行使,筆者などの町方580人,蘭通詞方138人,出島方135人,唐通事方246人,唐人屋敷96人,長崎会所171人,合計1743人の多きに達し,役料銀3200貫目余は,貿易利銀のうち長崎市政経費に充てられる金11万両(残余はすべて収公)の過半を占めた。この地役人の組織,人数,銀高は幕末まで大きな変化はなく,貿易縮減下の長崎会所財政を圧迫した。
執筆者: 鎖国下の長崎は西洋の文物を摂取する全国で唯一の窓口であった。外国人隔離策によってその受容も初めは吉雄耕牛,志筑忠雄らオランダ人と接触しうる通詞出身者に限られていたが,シーボルトは長崎郊外に鳴滝塾を開くことを許可され,ここに全国各地から青雲の志をいだいた青年たちが集まり,西洋の知識や技術を吸収して,洋学興隆をもたらした。また1855年(安政2)には幕府によって長崎海軍伝習所が設立され,近代的な航海術の伝習が始められた。一方,その前年の54年には日米和親条約によって鎖国に終止符が打たれ,長崎はそれまで唯一の開港場として保ってきた独占的地位を失い,しだいに横浜に主役の座を奪われていくことになる。
執筆者:

長崎市南端の旧町。旧西彼杵郡所属。長崎半島先端部を占める。人口8101(2000)。半島先端には権現山(198m)と祇園山が陸繫島をなし,前者の陸繫部には良港の野母浦をもつ主集落の野母,後者の陸繫部には県下有数の漁業基地脇岬がある。脇岬の南には樺島が浮かび,その北向きに開く港は近世の風待港であった。東シナ海から台湾まで出漁する漁業が基幹産業であるが,なかでもからすみは特産品として知られ,近世には越前のウニ,三河のこのわたとともに天下の三珍といわれた。旧長崎市茂木と並んでビワも多産する。野母に長崎大学水産実験所(1999年長崎市多以良町に移転。現,環東シナ海海洋環境資源研究センター),脇岬に貝の博物館,野母崎マリンランド,亜熱帯植物園,樺島に大ウナギ生息地(天)がある。
執筆者:

長崎[県] (ながさき)

基本情報
面積=4105.33km2(全国37位) 
人口(2010)=142万6779人(全国27位) 
人口密度(2010)=347.5人/km2(全国17位) 
市町村(2011.10)=13市8町0村 
県庁所在地=長崎市(人口=44万3766人) 
県花ウンゼンツツジミヤマキリシマ) 
県の花木=ソバキ 
県の林木=ヒノキ 
県鳥=オシドリ

九州北西端に位置する県。半島と島嶼(とうしよ)のみからなり,東は佐賀県に接し,西は東シナ海を隔てて中国大陸と,また北は対馬海峡を隔てて朝鮮半島と相対し,南は熊本県の天草諸島および天草灘に面している。

県域はかつての肥前国の高来,彼杵(そのぎ),松浦地方,および壱岐・対馬両国全域にあたる。江戸末期には長崎が天領として長崎奉行の支配下にあったほか,島原藩大村藩平戸藩福江藩対馬藩(府中藩。1869年厳原(いづはら)藩と改称)および佐賀藩の飛地が置かれていた。1868年(明治1)長崎裁判所が置かれて旧天領を管轄し,まもなく長崎府と改称,さらに天草県(肥後)を併合して,翌年長崎県となった。71年廃藩置県によって各藩はそれぞれ県となったが,同年厳原県は佐賀県と合併して伊万里県に,他は長崎県に統合され,その際天草地方を八代県(肥後)に移管した。翌72年長崎県は佐賀県(伊万里県を改称)から旧厳原県を編入,さらに76年には三潴(みづま)県(筑後)に併合されていた旧佐賀県分をも併合したが,83年佐賀県再置に伴いこれを分離し,現在の県域が確定した。

長崎県には先土器時代から土器文化発生期にかけての洞窟遺跡が多い。まず福井洞穴(佐世保市)は,先土器時代から縄文時代にわたる文化層が認められ,押型文土器,爪形文土器,隆起線文土器と細石器との共伴関係が明らかになった。百花台遺跡(雲仙市)も先土器時代から縄文時代にわたる文化層をもつオープン・サイトで,台形石器が日本で初めて層位的に編年づけられた。泉福寺洞穴(佐世保市)でも細石器など先土器時代の終末期から土器文化発生期への推移を示す遺物が層序的に出土し,ことに豆粒文土器は目下,日本最古とされる。岩下洞穴(佐世保市)は縄文早期から晩期に及ぶ遺物を出すが,ことに押型文土器の時期の屈葬人骨や多量の磨製石鏃は重要である。下本山(しももとやま)岩陰遺跡(佐世保市)は相浦川沿いで泉福寺洞穴,岩下洞穴の下流に位置し,縄文前期を中心に縄文早期末~弥生時代の遺物を出す。有喜(うき)貝塚(諫早市)は縄文中期を主とする貝塚。筏(いかだ)遺跡(雲仙市)は縄文後・晩期の遺跡で,甕棺墓や土壙墓のほか農耕関連の遺物も出し,山ノ寺遺跡(南島原市)はその遺物から同じく晩期農耕文化を究明するうえで注目される。晩期突帯文土器,山ノ寺式の標式遺跡である。礫石原(くれいしばる)遺跡(島原市)も晩期で,合せ口式甕棺2のほか集石墓10がある。原山遺跡(南島原市)は晩期終末の支石墓群。4群からなり,土壙,箱式石棺などを内部主体とする。里田原(さとたばる)遺跡(平戸市)は晩期末~弥生中期初頭の低湿地遺跡で,2群の支石墓や袋状竪穴,それに多量の木製品を伴う。大野台遺跡(北松浦郡鹿町町)では5地点にわたり晩期後葉~弥生前期中葉ごろの支石墓などの墓群が調査されている。深堀遺跡(長崎市)は縄文後・晩期,弥生中期の遺跡。

 カラカミ遺跡(壱岐市)は唐神山の山頂にある弥生時代の遺跡で,中期後半~後期前半の各種金属製品や漢式土器の出土で知られる。原ノ辻(はるのつじ)遺跡(壱岐市)も弥生中・後期の遺跡。上層からは鉄器,貨泉,漢式土器が出土。クビル遺跡(対馬市)は弥生後期の遺跡で,板石組合せ石棺中から銅鍑(どうふく)などの青銅器,漢式土器,弥生式土器が伴出した。シゲノダン遺跡(対馬市)は同じく後期の埋蔵遺跡。各種青銅器,鉄器と貨泉1が出土。塔の首遺跡(対馬市)も後期の石棺群で,とくに8000余個にものぼるガラス小玉が注目される。
壱岐島 →対馬島 →肥前国
執筆者:

県域は対馬海峡,五島灘などの海面を含んで,底辺約170km,高さ約250kmの二等辺三角形の中に広がる。対馬壱岐五島列島などの島嶼が県の総面積の45%を占め,常住者のいる島は80,いない島は490を数える。本土側は北松浦半島肥前半島西彼杵半島長崎半島島原半島が,手の指のごとく分岐する。島嶼部,半島部はいずれも沈水性のリアス式海岸が発達し,湾入が著しい。加えて顕著な火山活動が各地にみられ,島原半島には複合火山の雲仙岳が,北松浦半島や壱岐には玄武岩の溶岩台地が,五島列島には多くの臼状形の火山砕屑(さいせつ)丘や溶岩台地が分布する。県域には海岸線から10km以上内陸に入ったところはないうえに海岸に山地が迫るところが多く,谷底平野の発達はきわめて悪い。平野はわずかに大村湾東岸の郡(こおり)川がつくる大村平野と,諫早(いさはや)湾岸の干拓によって造成された諫早平野があるにすぎない。したがって河谷や入江ごとに,また半島や島嶼ごとに細分化され,交通上の障害によってそれぞれ孤立して小規模な農漁村地域社会を形成し,江戸時代は小藩が分立していた。現在の県域は明治政府によって人為的に形成されたものであり,地域差が大きく,統一性に欠ける。

 気候は海洋性を示し,雲仙岳(1359m),多良(たら)岳(996m)などの高所を除けば,年平均気温は16~17℃で大差はないが,年降水量は雲仙岳で2400mm以上,本土北部で2000mm以上,南部で1600~1800mm,島嶼部で1400~2000mmと局地性に富む。梅雨前線の停滞により集中豪雨に見舞われることがあり,1982年7月23~25日の集中豪雨では,1時間雨量としては観測史上最大の187mm(長与町)を記録した。長崎県だけでも299人にのぼる死者・行方不明者を出し,1957年の諫早豪雨以来の大災害となった。また雲仙火山群の主峰普賢岳は198年ぶりに,1990年火山活動を再開し,翌年6月には43人の死者・行方不明者を出す火砕流が発生した。その後も断続的に活動をつづけたが,95年ようやく終息した。

長崎県は水田が少なく,耕地の6割は半島および島の狭小な傾斜地に営まれる畑地である。第1次産業就業人口は14%(全国平均7%。1990)で,漁業とともに農業就業人口の比重が大きい。県の水稲作付総面積の13%を占める北松浦半島の水田は,玄武岩台地上に棚田をつくりながら形成されたものが多い。また県下最大の穀倉地帯と称される諫早平野の水田地帯も水稲作付総面積の11%を占めるにすぎない。平たん地の水田は少なく,1戸当りの水田経営面積は53aと小さく,10a当り平年収量も全国平均の90%前後で,土地生産性は低い。五島列島をはじめ離島に多い肉牛(長崎牛)は,飼育頭数が9万頭(1995)に達し,漸増傾向にある。また肉質が向上したため,子牛としても出荷されるほどである。養豚は飼育頭数22万頭(1996)で90年をピークに減少している。急傾斜地の多い本県では,早くから果樹生産が行われ,とくに長崎市茂木(もぎ)地区のビワは明治末以降商品作物として発展し,全国1位(3割弱。1995)を占める。またミカン栽培は第2次大戦前,すでに大村湾岸に広がっていたが,戦後は島原半島,西彼杵半島など全県下に広がり,なかでも大村湾岸の伊木力(いきりき)地区(諫早市の旧多良見(たらみ)町)は有名である。江戸時代以来代表的な畑作物であったサツマイモに代わって,1960年代からジャガイモの生産が島原半島を中心に急速に増加して日本一の暖地ジャガイモ生産地となり,北海道に次いで第2位の生産額をあげている。半島北部の瑞穂(みずほ)町(現,雲仙市)には,農林水産省雲仙馬鈴薯原原種農場(現,独立行政法人の種苗管理センター雲仙農場)が設置され,全国に種ジャガイモを出荷している。

県の海岸線の総延長は4000km余におよび,北海道の海岸線を上回るほどの長さである。沿岸には対馬海流が北上し,周辺海域には広大な大陸棚が発達して豊かな漁場を形成する。多くの入江は漁村の立地に好適であり,古くから漁業は重要な産業であった。江戸時代から明治時代にかけて五島列島周辺などで捕鯨が盛んであったがしだいに衰微し,代わって大敷網によるブリ,マグロ漁が発展した。しかし一般的に地元漁民は一本釣りによる零細な漁法を行っていた。第2次大戦後は韓国との間の李承晩ラインをはじめ,1977年からの200カイリ規制など,国際間の漁業規制の強化により漁場は縮小している。一方,水産資源も減少しつつあるので,長崎県をめぐる漁場条件は厳しいものの,現在,海面漁業の生産額は全国の8%(1994)を占めており,全国第2位の水産県である。

 最大の生産額をあげる大・中型まき網漁業は,ほとんどが県内の中小資本の経営になるもので,戦後,五島灘におけるマイワシの豊漁によって大きく成長した。しかし1952年以降急速に衰退し,代わって中通(なかどおり)島の奈良尾町(現,新上五島町),生月(いきつき)島の生月町(現,平戸市)の漁港を根拠地として,東シナ海でアジ,サバをとる大型まき網漁業へ発展した。70年代には東北地方の三陸沿岸や北海道沖合漁場でも操業するようになった。以西底引網漁業は機械力によって網を引き,底魚類をとるので,漁船の大型化が進み,近代的な機械や設備を必要とする。したがって大企業に限られ,その基地は長崎港に集中する。このほか零細な沿岸漁業や,タイ,ヒラメ,真珠などの海面養殖が全県下に展開し,多様な漁業が営まれている。

県内には北松(ほくしよう)炭田と西彼(せいひ)炭田があり,最盛期の1960年には両炭田あわせて年間660万tの石炭を産出していたが,エネルギー革命に伴って70年までに西彼炭田の2炭鉱を残して閉山した。しかし2炭鉱のうち,高島炭鉱は1986年閉山,現在わずかに松島炭鉱池島鉱業所(長崎市の旧外海町池島)のみが操業している。長崎県では豊富な石炭をもちながら,石炭型工業を形成することはできなかったが,軍需と結合した造船業が成立し発展した。幕末にできた長崎熔鉄所を起源とする三菱重工長崎造船所と,旧海軍工厰を引きつぐ佐世保重工佐世保造船所がそれである。第2次大戦後,大型オイルタンカーの建造によって成長をとげ,一時は両者で県の製造品出荷額の50%内外を占めていた。しかし74年ころから始まった造船不況のため,造船部門の占める比率は低下し,火力発電プラント,産業機械などを製造する機械部門の比率が急速に高まっている。三菱造船内にあった船舶用電気工場は1924年に三菱電機に吸収され,長崎製作所となった。69年には大村湾岸の時津(とぎつ)町にも工場を新設し,車両用冷房装置や大型冷凍機械などを製造している。73年の石油危機以降,輸入石炭が見直され,西彼杵半島の西に浮かぶ松島に,出力100万kWの石炭専焼火力発電所ができ,松浦市にも340万kWのものが稼動している。五島列島青方湾には上五島洋上石油備蓄基地が完成し,88年より操業を始めた。伝統的な地場産業としては,三川内(みかわち)焼(佐世保市),波佐見(はさみ)焼(波佐見町),須川そうめん(南島原市の旧西有家町)などがある。

長崎県の陸上交通は,その地形上の制約によって発達が阻害されている。鉄道は1898年に九州鉄道長崎線(現在の佐世保線,大村線,長崎本線の一部)が全通した。炭田開発に伴ってできた短い鉄道は石炭産業の斜陽化によって廃線となったが,旧松浦線は第三セクターとして民営化(松浦鉄道)された。他に私鉄としては島原半島の東側を走る島原鉄道がある。道路は旧長崎街道(長崎~小倉)にあたる国道34号線のほか,204号,206号,251号線などが通じる。県内には瀬戸に架かる橋が多く,なかでも1955年に針尾瀬戸に架けられた西海(さいかい)橋は,西彼杵(にしそのぎ)半島を縦断して長崎・佐世保間を結ぶ206号線を整備させ,平戸島,生月(いきつき)島を本土とつないだ平戸大橋,生月大橋も離島振興に大きな役割を果たしている。長崎県はその地理的位置から古来,東アジア諸地域とのかかわりが深く,また西洋文化も日本で最も早く受け入れられた。1571年(元亀2)にポルトガル船が入港して以来発展した長崎港は,鎖国時代も全国で唯一の貿易港として栄え,第2次大戦中まで上海航路の基地であったが,現在は佐世保とともに県内離島航路の基地となっている。しかし対馬は南部が博多港,北部が北九州市小倉港と(2008年現在は北部も博多港),壱岐は呼子港(2007年唐津東港に変更。ともに佐賀県)および博多港と,五島は長崎・佐世保両港のほかに博多港とも結ばれ,近接する県外港市との結びつきが濃い。1975年,日本最初の海上空港として大村湾内に完成した長崎空港(大村市)は,中国上海との国際線をはじめ(2008年現在,ソウル便もある),東京,大阪,名古屋,札幌(08年現在,札幌便はなし)の大都市や南九州・沖縄の3都市,そして県内離島の各地との間に定期航空路をもっている。

長崎県は自然的条件と歴史的条件から,まとまった姿は求めがたく,今日でも多くの小地域から構成されているが,大まかに本土側と離島側に分けられ,さらに前者を都市勢力圏から,長崎市を中心とした県南と,佐世保市を中心とした県北に区分することができる。

(1)県南 地形上は長崎市,島原,西彼杵,肥前の4半島を占め,行政上は長崎,大村,諫早,島原,南島原,雲仙,西海の7市と西彼杵郡の全域を含む。県総面積に対しては約4割を占めるが,総人口では約6割に達し,県内で最も高い人口密度を示す。とくに天然の良港長崎港をもち,16世紀末から日本の海外貿易の玄関口として発展した長崎市は明治以降,日本の近代化に歩調を合わせながら港の機能を生かした造船業・水産業の発達によって成長してきた。そして長い鎖国の時代に外国から得られた南蛮文化や中国文化を,また原爆被爆体験を知りうる地として,訪れる人々も多く,長崎は県最大の観光地となっている。諫早市は長崎本線と大村線の分岐点,島原鉄道の起点をなす交通の要地として,また大村市は長崎空港を抱え西九州の玄関口として,両市は電子工業を中核としたハイテク産業を芽生えさせている。雲仙天草国立公園に含まれる島原半島は雲仙岳周辺に温泉が多く,交通の便もよいため観光地化が進んでいる。また交通の便が悪く陸の孤島ともいわれた西彼杵半島は,長崎・佐世保両市を結ぶ国道202号,206号線が整備されたため,観光地化・住宅地化が進んだ。

(2)県北 地形上は北松浦半島,九十九島,平戸諸島を含め,行政上は佐世保,松浦,平戸の3市と,東彼杵郡,小値賀(おぢか)町を除く北松浦郡の全域を含み,県総面積,総人口のともに約1/4を占める。佐世保市は戦前旧海軍軍港として,戦後はアメリカ海軍基地として発展してきたが,造船業を核とする工業や,県北一帯を商圏とする商業が市の基幹産業になっている。また大村湾に面した市南東部にオランダの町並みを再現した大型テーマパークのハウステンボスが1992年に開業し,国内外から多くの観光客を集めている。松浦市は炭鉱の閉山により活気を失っていたが,縫製・食品などの工場誘致に努めるとともに,最近大型の石炭火力発電所(九州電力70万kW,電源開発100万kW)が建設された。1955年には弓張岳,九十九島,平戸島などが西海国立公園に指定され,77年には平戸大橋,91年には生月島を平戸島につなぐ生月大橋が完成して,平戸島と生月島は本土と陸続きとなり,オランダ商館跡など史跡の多い観光地として重要性を高めている。

(3)離島 県内には500余の島嶼があるが,本土から遠く25km以上離れた主要な島々は五島列島,壱岐,対馬である。行政上は五島列島が五島市と南松浦郡新上五島町,北松浦郡小値賀町,佐世保市の旧宇久町からなり,壱岐は壱岐市,対馬は対馬市よりなる。県総面積の27%,総人口の13%を占めるにすぎない。離島の特徴として孤立性が高く,経済力が低く,かつ過疎化の進むなかで高齢化が著しい。いずれの島も農漁業を主とするが,離島振興法に基づく港湾の整備は零細漁業の発展をもたらした。しかし一方では,港湾の整備は本土資本の流入を招き,観光開発とあいまって島の自給経済の崩壊をうながした。
執筆者:


出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長崎」の意味・わかりやすい解説

長崎
ながさき

山形県中央部、東村山郡中山町の中心地区。旧長崎町。最上(もがみ)川中流の右岸に位置し、中世には中山氏の長崎城が築かれ、近世初頭からは最上川の舟着き場として発展し、1921年(大正10)の国鉄(現、JR)左沢(あてらざわ)線の開通まで続いた。中山町役場、歴史民俗資料館や、JR羽前(うぜん)長崎駅がある。国道112号が通じ、最上川に長崎大橋が架かる。

[編集部]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「長崎」の解説

長崎
ながさき

長崎県南部にある港湾都市。県庁所在地
16世紀中ごろより大村氏領となり,1570年ポルトガル船が寄港して以来貿易港として発展。大村純忠がイエズス会に寄進し一時教会領となったが,'87年豊臣秀吉が没収して直轄領とし,江戸時代には幕府の天領として長崎奉行の支配下に置かれた。初め朱印船貿易の基地であったが,鎖国政策の進行に伴い,この地に出島が建設され,オランダ商館が移されて,鎖国下における唯一の貿易港となった。ヨーロッパ文化に接する窓口の役割を果たしたので蘭学を志ざす者の来遊の地となり,幕末の安政の五カ国条約によって開港された。1889年市制施行。太平洋戦争末期の1945年8月,原子爆弾により市街の大半が壊滅したが,その後復興。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「長崎」の解説

長崎
ながさき

長崎県南西部,長崎半島の基部に位置する。県庁所在地。1571年(元亀2)ポルトガル人宣教師と大村純忠(すみただ)が長崎港を貿易港とし,港に続く岬上に都市を建設。80年(天正8)には長崎をイエズス会領とし,長崎は貿易とキリスト教の都市となった。近世の鎖国時代は幕領として長崎奉行がおかれ,オランダ・中国に開かれた貿易港として発展。1868年(明治元)長崎府,69年長崎県として一時政府の直轄領とされたが,78年長崎区となり,89年市制施行。江戸幕府が造った長崎製鉄所(のちの長崎造船所)は87年三菱に譲渡され,長崎は重工業都市として発展した。1945年(昭和20)8月9日,原子爆弾が投下されたが,戦後廃墟の中から復興した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長崎の言及

【異域・異国】より

…対馬はこのような意味で対馬口と呼ばれる。 長崎は幕府奉行の直接の管理の下で,ヨーロッパ人と中国人を受け入れる長崎口として定置された(〈長崎貿易〉の項目参照)。ヨーロッパ人はオランダ人に限定されたが,オランダ国とは朝鮮国のような外交関係にはなかった。…

【原子爆弾症】より

…一般に広島,長崎に投下された原子爆弾に起因すると考えられる疾病のことで,原爆症と略称することが多い。原爆被災者の実数を正確にとらえることは,第2次大戦終戦直前の混乱期であったことから難しいが,広島の原爆投下時(1945年8月6日)に市内にいた約42万人の市民のうち約15万9000人(約38%)が,4ヵ月後の1945年12月末までに死亡した。…

【長崎[県]】より

…面積=4090.66km2(全国37位)人口(1995)=154万4934人(全国26位)人口密度(1995)=378人/km2(全国15位)市町村(1997.4)=8市70町1村県庁所在地=長崎市(人口=43万8635人)県花=ウンゼンツツジ(ミヤマキリシマ) 県木=ヒノキ 県鳥=オシドリ九州北西端に位置する県。半島と島嶼(とうしよ)のみからなり,東は佐賀県に接し,西は東シナ海を隔てて中国大陸と,また北は対馬海峡を隔てて朝鮮半島と相対し,南は熊本県の天草諸島および天草灘に面している。…

※「長崎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android