川辺郡(読み)かわべぐん

日本歴史地名大系 「川辺郡」の解説

川辺郡
かわべぐん

面積:九〇・四一平方キロ
猪名川いながわ

県域の南東部に位置し、南東は川西市、南西は宝塚市、北西は三田市、北は、篠山市、北東は大阪府豊能とよの能勢のせ町と接する。篠山市境の大野おおや(七五三・五メートル)南麓を水源とする猪名川槻並つくなみ川などを合せて南流し、この東西の郡境にはひるヶ岳・三草みくさ山・三蔵みくら山・竜宮りゆうぐう山・雨森あまもり山・しろ山などの山嶺が連なっている。現在の郡域は猪名川町のみであるが、前近代の郡域は南に続く川西市・宝塚市・伊丹市・尼崎市および三田市の北東部にわたり、摂津国を東西に分ける南北に長い地域であった。郡名の表記は古代には「河辺」が多く、「和名抄」高山寺本に「カハヘ」、同書東急本国郡部・元和古活字本に「加波乃倍」の訓がある。「拾芥抄」の表記・訓は「河辺かはのべ」。明治一二年(一八七九)郡区編制法施行時の表記は「川辺」で訓は「カハノベ」(「地方沿革略譜」「地名索引」)。現在は「かわべ」とよぶことが多い。

和銅六年(七一三)に能勢郡を分置・独立させるまでの当初の郡域は東部は丹波国桑田くわた、摂津国島下しまのしも豊島てしま西成にしなり、西部は有馬ありま武庫むこ、南は大阪湾、北は丹波国船井ふない多紀たきの諸郡に接している。のちに豊島郡や武庫郡・有馬郡との郡界に一部変動があり、丹波国多紀郡との間でも郡域移動があった可能性がある。能勢郡分立後の当郡の立地環境をみると、郡の北部は、北は丹波へと連なる山地、南は北摂山地に連なる箕面みのお山地、六甲ろつこう山系に連なる長尾ながお山地などと、それらに包まれたかたちの東谷ひがしたに多田ただなどの狭小な山間盆地からなり、南部は猪名川と武庫川によって東西を限られた伊丹台地、および猪名川によって形成された堆積平野が広がっている。

〔古代〕

平城宮跡出土木簡に「国川辺□」とみえるのは川辺郡のことであろう。天平勝宝三年(七五一)三月三日の東大寺奴婢帳(東大寺文書)には川辺郡の郷として「和名抄」に記載がない坂合さかい郷がみえているので、郷の構成に変動のあったことがうかがえる。養老令の基準では中郡(「令義解」戸令定郡条)。「続日本紀」和銅六年九月一九日条によれば、川辺郡「玖左佐村」が郡衙より遠隔であるうえ道路も険難であるため、大宝元年(七〇一)から館舎を設けて郡に准じて雑務や公文を取扱っていたが、この和銅六年に至って能勢郡として分置・独立させたという。天平一九年(七四七)の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(法隆寺蔵)の諸国の庄をあげたなかに「川辺郡一処」とみえる。また「摂津国風土記」逸文(万葉集註釈)によれば、美奴売松原みぬめまつばら地名説話として、神功皇后が筑紫国へ向かおうとしたときもろもろの神を川辺郡内の神前かんざきの松原(現尼崎市)に集めて加護を願ったという。


川辺郡
かわなべぐん

面積:三六四・二二平方キロ(境界未定)
知覧ちらん町・川辺かわなべ町・坊津ぼうのつ町・笠沙かささ町・大浦おおうら

薩摩半島の南西部に位置し、郡域は枕崎市と加世田市によって二分され、東部の知覧町・川辺町、西部の坊津町・笠沙町・大浦町からなる。主要な河川として知覧町・川辺町から加世田市を貫流する万之瀬まのせ川がある。標高五〇〇メートル台の山岳として知覧町のははヶ岳(五一七メートル)、川辺町のくまヶ岳(五八九・七メートル)、加世田市・大浦町境の長屋ながや(五一三・一メートル)などがあり、笠沙町の野間のま(五九一・一メートル)が最も高い。郡名は近世まで河辺郡と記されることが多く、訓は「和名抄」東急本国郡部に「加波乃へ」、同書元和古活字本に「加波乃倍」、「拾芥抄」に「カハノベ」「カハヘ」とあり、近世までカワノベであったと考えられる。古代の郡域は現在の知覧町・川辺町・枕崎市および坊津町南部に比定される。中世の郡域は川辺町・枕崎市および坊津町ぼうとまり地区一帯で、これに現鹿児島郡三島みしま村・十島としま村の島嶼部および熊毛くまげ郡の尾久島・口永良部くちえらぶ島が付属していたとみられる。近世になると、郡域は坊津町の残りの久志くし秋目あきめ地区、および笠沙町・大浦町・加世田市に及び、三島村・十島村の島嶼部は天保郷帳などに硫黄いおう島として高付されている。この時期の島嶼部を除く郡域は、北は阿多あた郡、北東は谿山たにやま郡、東は給黎きいれ郡に接し、南・西・北西は海に面していた。なお「鹿児島県史」は、郡名は万之瀬川の辺りという意味としている。

〔古代〕

「和名抄」によれば川上かわかみ稲積いなづみの二郷からなる。天平八年(七三六)の薩摩国正税帳(正倉院文書)にみえる隼人はやと十一郡の一つ。同正税帳には河辺郡の初表示から中間表示にかけて五行分の記載がある。これによれば、租によるとみられる稲穀の記載がなく、出挙によるとみられる穎稲の量も極端に少ないことから、天平八年当時の河辺郡では少なくとも租の収取が行われておらず、律令制度の諸原則の適用が猶予されている状態にあったと考えられる。また天然痘の流行を理由とする同七年閏一一月一七日の勅による河辺郡に対しての賑給が、高城たき郡の酒を用いて行われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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