難波入堀川(読み)なんばいりぼりがわ

日本歴史地名大系 「難波入堀川」の解説

難波入堀川
なんばいりぼりがわ

享保一八年(一七三三)難波御蔵の建設に伴って道頓堀どうとんぼり大黒だいこく橋下から御蔵の間に掘られた堀川で、新入堀しんいりぼり川・難波新なんばしん川ともよばれた。長さ四四三間半・幅八間、蔵の船入堀は二〇間四方であった(大阪市史)開削にあたっては、当時の貧民救済策の一環として貧民を土砂運搬に従事させ、賃金を支払う方法がとられた。そのため当堀を世上「極貧堀」ともいったという(草間伊助筆記「大阪市史」所収)。明和五年(一七六八)一〇月この入堀川浚えを玉造仁右衛門たまつくりにえもん(現東区)の山家屋平右衛門が請負い、「御蔵納払人足之内六百人宛」銀納するかわりに堀両岸の傾斜地に建家をし、煮売株一〇の許可を申請して認められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報