庄内川から分かれ、名古屋市の中心部を南北に流れて名古屋港に注ぐ。江戸時代初期、名古屋城の築城に伴って開削され、物流の大動脈として暮らしや経済を支えた。1980年代以降、再整備や水質改善が進められた。
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京都市北区・上京区・中京区・下京区・南区の京都中央部を貫通する川。現在、北区では暗渠になっているが、上京区一条
水源は時代により変化したとみられる。古代は賀茂川に源を発したと考えられる。これは堀川が旧鴨川の本流であったとする説と合致し、調査で砂礫層の広幅な旧河床が明らかになっている。しかしこれを鴨川本流としない説も有力である(→平安京の項)。中世以後は、水源・流路の変改がみられるが、ほぼ
古代―近世を通じ、一条戻橋をはじめ堀川を横切る洛中東西路にはほとんど橋があり、京都御役所向大概覚書には、江戸時代の公儀橋として、「堀川中立売橋・同下立売橋・同竹屋町橋・同二条通橋・同大炊橋・同三条通石橋・同信濃小路橋」があげられる。
元和六年(一六二〇)福岡藩初代藩主黒田長政は自ら遠賀川を視察、同川の水害を防ぐために分水路(堀川)の開削を計画した。この計画は
浅野川左岸周辺の堀川を冠称する地子町の総称で、堀川台とも称された。堀川の名の由来は、元和六年(一六二〇)
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市街の中央部を南流する川。北区で賀茂川(鴨川)から分かれ,ほぼ現在の堀川通りに沿って流れ下り,南区上鳥羽で再び鴨川に合流する。全長約8.2km。平安京建設以前は堀川が鴨川の本流であったとする説もあるが,明証はない。紙屋川(天神川)を西堀川とよぶのに対し,東堀川とも称された。現在の堀川通りは平安京の堀川小路に相当し,他の小路が幅4丈であったのに対し,堀川の幅を加えて8丈幅であった(川を挟む両側の通りをおのおの東堀川通り,西堀川通りという)。二条堀川には藤原氏の邸宅堀河殿(堀河院)があり,しばしば里内裏(さとだいり)とされた。六条堀川には源氏堀河館があり,頼義以後,為義,義朝,義経など源氏累代の館であった。古くから運河として利用され,丹波から桂川へと流された材木は堀川をさかのぼって五条付近まで運ばれ,中世には材木市が立ち,商人が集住した。堀川沿いには江戸時代にも材木商が多く,儒者伊藤仁斎の生家は材木商であったと伝え,堀川学派の古義堂も堀川下立売にあった。近世後期には川沿いに染色業も発達する。現在,堀川は一条戻橋(上京区)付近までは暗渠となっており,下流でも水流がなく,排水溝のようになっている。
執筆者:金田 章裕
地を掘ってつくった人工の川。とくに日本の古代都城内にあって,物資の運送などに用いられた運河をいい,堀河とも記す。平安京の場合は東西両市の内側を通って堀川がつくられ,東の堀川は二坊大路と三坊大路の坊門を南北に流れており,西の堀川も対称的に同じ位置にある。前者は賀茂川,後者は桂川につながり,さらに淀川につらなっており,大規模な水運とむすびついて物資運送の重要な施設となっていた。これ以前の平城京の場合にも同じようなことがいえる。すなわち東の堀川は佐保川水系を利用してつくられ,東市内を貫流していた。発掘の結果見つかった堀川は幅10mにおよんでいる。西の堀川は秋篠川(あきしのがわ)を利用したものと思われ,西市の東辺を流れ,さらに北では薬師寺の東辺に接していた。この佐保・秋篠両河川も大和川につながって,難波の津とむすぶ水運となっていた。また平城京から南進する下ッ道の東側にも大規模な運河が見つかっているが,これと堀川との関係はまだわかっていない。さらに平城京より前の藤原京では,西は飛鳥川の水系が,東は天香久山の西の水系が堀川として使用されたらしい。
執筆者:鬼頭 清明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
京都市街のほぼ中央を北から南に流れる川。北区大宮頭(おおみやがしら)で加茂(かも)川から分流して南流し、南区上鳥羽(かみとば)で鴨(かも)川と合する。上京(かみぎょう)区一条戻橋(もどりばし)以北と同区押小路通以南は一部を除いて暗渠(あんきょ)となっている。延長7.5キロメートル。堀川の水を利用して友禅(ゆうぜん)染めの染物業が発達したが、川水の汚染のため、現在では地下水が利用され、堀川は排水溝同然となっている。なお、堀川に沿う堀川通は第二次世界大戦後、幅員50メートルに拡張された。沿道には二条城、西本願寺などがある。
[織田武雄]
愛知県名古屋市内にある運河。名古屋城築城の際、普請奉行(ふしんぶぎょう)福島正則(まさのり)によって掘られた運河で、完成は1611年(慶長16)である。水源は庄内(しょうない)川で、導水路は黒川。城の西側から当時は海岸だった熱田(あつた)港までの約7.2キロメートルを尾張(おわり)藩は年貢米、木材、塩などの輸送水路として利用した。堀川沿いには塩町、木梚(こびき)町、納屋橋(なやばし)周辺には米蔵などの倉庫群、その南に水軍、熱田には貯木場が配置されていた。明治以後、名古屋港を軸に、新堀川、中川運河、大江川などを加えて5運河となった。
[伊藤郷平]
遠賀川(おんががわ)中流東岸から北九州市八幡西(やはたにし)区の洞海湾(どうかいわん)奥までの全長12.5キロメートルの運河。福岡藩家老栗山大膳(くりやまだいぜん)が1621年(元和7)に着工したのにちなみ大膳堀ともいう。工事中断ののち、1762年(宝暦12)完成、灌漑(かんがい)・洪水調整用であったが、藩米輸送用に整備されたのち、明治以降は筑豊炭(ちくほうたん)の輸送運河となった。現在は輸送機能をもたない。
[石黒正紀]
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…角書〈おしゅん伝兵衛〉。通称《堀川》。作者不詳。…
…また下流部の伏見区中島には名神高速道路の京都南インターチェンジが設置され,鳥羽大橋と鴨川橋が架設されている。【服部 昌之】
[歴史]
賀茂川の流路については,現在の堀川が本流で,これに出町から南西方向へ流れる高野川が合流していたのを,平安京造都時,両川を出町付近で合流させ,京域の東側を南流するように流路の新設と変更がなされたとするのが通説であるが,近時の地質調査の結果,賀茂川(鴨川)は平安遷都時にはほぼ現在の流路をとっており,変更はなかったことが明らかとなった。その位置関係から東河(とうが)ともいい,ここで大嘗祭に先立ち天皇の御禊が行われ,また斎王の祓も行われ,東河の祓と称される一方,死体の遺棄や罪人の処断が行われる場所でもあった。…
…木屋座とも称した。京都堀川,木津,奈良,鎌倉,堺など主要都市にその成立が確認される。京都堀川は平安末期には諸国から搬入された材木の交易場としてにぎわったが,座の成立を確認できるのは南北朝時代である。…
…利根川,江戸川,淀川,大和川,北上川などで流路が付け替えられ,水運が開かれた。伊達政宗の貞山堀や遠賀川と洞海湾を結ぶ筑前の堀川も近世初期に着工された運河で,後者では明治期になると筑豊炭の輸送路として役立った。明治期に田辺朔郎が近代的土木技術によって開削した琵琶湖疏水(1890)は,大津~鴨川間の本線と,蹴上から北西へ延びる支線から成り,灌漑,水力利用,運輸を目的とした運河である。…
※「堀川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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