堀川(読み)ホリカワ

デジタル大辞泉 「堀川」の意味・読み・例文・類語

ほり‐かわ〔‐かは〕【堀川/堀河】

京都市街のほぼ中央を南流する川。北区大宮で賀茂川から分流し、南区上鳥羽付近で鴨川に注ぐ。→賀茂川
浄瑠璃近頃河原達引ちかごろかわらのたてひき」の通称。

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共同通信ニュース用語解説 「堀川」の解説

堀川

庄内川から分かれ、名古屋市の中心部を南北に流れて名古屋港に注ぐ。江戸時代初期、名古屋城の築城に伴って開削され、物流の大動脈として暮らしや経済を支えた。1980年代以降、再整備や水質改善が進められた。

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精選版 日本国語大辞典 「堀川」の意味・読み・例文・類語

ほり‐かわ‥かは【堀川】

  1. [ 1 ] 地を掘りうがって造った川。人工の川。
    1. [初出の実例]「水上のさだめてければ君が代にふたたびすめるほりかはの水〈曾禰好忠〉」(出典:詞花和歌集(1151頃)雑下・三八五)
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 京都市の市街地中央部を南北に流れる川。北区大宮で賀茂川から分流した小川で、一般に上京区一条戻橋付近から南区上鳥羽で鴨川に合流するまでをいう。平安京造営に際して開かれ、京染に利用された。全長八・二キロメートル。堀江。
    2. [ 二 ] 大阪市北区の東部を流れていた天満堀川のこと。
      1. [初出の実例]「ほり川の材木屋の小者」(出典:浮世草子・世間胸算用(1692)二)
    3. [ 三 ] 愛知県名古屋市内にある運河。名古屋城西方の滝ノ口から名古屋港まで通じる。慶長一六年(一六一一)名古屋城築城の際に開削。のち尾張藩の米・材木などの運送に利用された。全長約六キロメートル。大夫堀。
    4. [ 四 ] 京都を流れる堀川の両岸に沿う道路。堀川通り。
    5. [ 五 ] 浄瑠璃「近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)」の通称。
    6. [ 六 ] [ 五 ]の中の巻の称。お俊伝兵衛の心中の門出に、兄与次郎が猿回しを演じる。

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日本歴史地名大系 「堀川」の解説

堀川
ほりかわ

京都市北区・上京区・中京区・下京区・南区の京都中央部を貫通する川。現在、北区では暗渠になっているが、上京区一条戻橋もどりばし(上流端は上京区橋ノ上町)より姿を現し、一直線に南下して、南区で鴨川に合流する。全長約八・二キロ。

水源は時代により変化したとみられる。古代は賀茂川に源を発したと考えられる。これは堀川が旧鴨川の本流であったとする説と合致し、調査で砂礫層の広幅な旧河床が明らかになっている。しかしこれを鴨川本流としない説も有力である(→平安京の項)。中世以後は、水源・流路の変改がみられるが、ほぼ紫竹しちく(現北区)付近に発し、大徳だいとく(現北区)周辺の諸小川を集めて南下し、大宮通を更に南流、上立売通で東折し、堀川通に至って再び南流して、一条戻橋で小川おがわ(「こかわ」とも)を併せ、一直線に南下し、西本願寺(現下京区)に至る。西本願寺付近で多少屈曲した後、西九条村(現南区)を貫通して、九条通に至り、御土居おどい堀を併せて西流し、八条村四塚よつづか(現南区)から鳥羽作道とばつくりみちに沿って南下、上鳥羽村(現南区)北で天神てんじん川に合流していた。流路変更による鴨川への合流は昭和九年(一九三四)である。

古代―近世を通じ、一条戻橋をはじめ堀川を横切る洛中東西路にはほとんど橋があり、京都御役所向大概覚書には、江戸時代の公儀橋として、「堀川中立売橋・同下立売橋・同竹屋町橋・同二条通橋・同大炊橋・同三条通石橋・同信濃小路橋」があげられる。


堀川
ほりかわ

遠賀おんが川の右岸で同川から分れて、洞海どうかい湾に注ぐ一級河川。遠賀堀川ともいう。宝暦年中(一七五一―六四)に開削された人工河川だが、一部では笹尾ささお川・くろ川・金山かなやま川などの自然河川を利用している。現在は河川管理上、遠賀川の分派点から笹尾川への合流点までを堀川(河川延長〇・七キロ、流域面積〇・一平方キロ)、笹尾川の分派点から黒川への合流点までを新堀川(河川延長〇・二キロ、流域面積〇・一平方キロ)、黒川の分派点から洞海湾までを新々堀川(河川延長九・二キロ、流域面積一・四平方キロ)と称している。

元和六年(一六二〇)福岡藩初代藩主黒田長政は自ら遠賀川を視察、同川の水害を防ぐために分水路(堀川)の開削を計画した。この計画は底井野そこいの(現中間市)で遠賀川の水を分け、岩瀬いわせ(現同上)吉田よしだ(現水巻町)折尾おりお(現八幡西区)を経て洞海湾に落すというもので、現水巻みずまき町東部から八幡西やはたにし区西部にかけての丘陵地帯は、ほぼ現在のJR筑豊本線の路線に相当する経路で抜ける予定であった。工事は翌七年から栗山大膳を総司として着工されたが、同九年の長政死去などにより中止となった(「新訂黒田家譜」など)。この時に開削された堀の跡は何ヵ所か残り、うち吉田村―折尾村間の堀跡は栗山大膳にちなんで大膳だいぜん堀とよばれていた(続風土記・地理全誌)。宝永年間(一七〇四―一一)前述の丘陵地を下二しもふた(現水巻町)比叡尻ひえじり(稗尻)から吉田村苗代谷なわしろたにを通って本城ほんじよう(現八幡西区)に至る川筋で抜けるもの(ほぼ現JR鹿児島本線の路線に相当)など、幾つかの経路で堀川開削が検討されたが、着工には至らなかった。


堀川
ほりかわ

出雲市東林木ひがしはやしぎ町付近に発し、西流して同市域でしん川を合流して大社町に入り、同町の菱根ひしね入南にゆうなん境のやりさき橋付近で古内藤こないとう川を合流、のち修理免しゆうりめん杵築南きづきみなみ境付近で南西に流れを変え、近世の杵築六ヵ村の南端をめぐるように流れて日本海に注ぐ二級河川。河川延長は一一・三六キロ。鑓ヶ崎橋より上流は高浜たかはま川ともいわれる。近世初期に小山おやま(現出雲市)の三木与兵衛の尽力によって開削されたという。かつて菱根村からはま村・江田えだ(現出雲市)にかけての一帯には菱根池があり、松江藩はこれを干拓して新田開発を行う計画を立てた。


堀川
ほりかわ

浅野川左岸周辺の堀川を冠称する地子町の総称で、堀川台とも称された。堀川の名の由来は、元和六年(一六二〇)宮腰みやのこし大野おおのの両湊から引船をするために、下安江しもやすえ村まで堀川を通したことによる(金沢古蹟志)。船の出入りが多く、遊廓もたち賑わったと伝える(三壺記)。元禄九年(一六九六)には堀川七ほりかわなな新堀川しんほりかわ町・本堀川もとほりかわ町・堀川川除ほりかわかわよけ町・堀川片原ほりかわかたはら町・堀川亀淵ほりかわかめぶち町が成立しており(書上「片岡孫作筆録」加越能文庫)、文化八年(一八一一)にも同じく六町があった(金沢町絵図名帳)。文政四年(一八二一)堀川片原町堀川笠市ほりかわかさいちと改称、同六年堀川川除町が堀川淵上ほりかわふちのえ町と改称、堀川川除町の裏地が堀川間ほりかわあいノ小路(堀川間ノ町)として町立てされた。


堀川
ほりかわ

名古屋城下は台地上に形成され、自然河川をもたず、水利の便に欠けていたため、物資輸送の動脈として、その西辺の低湿地を利用して開いた運河で、慶長一五年(一六一〇)名古屋城築城とほぼ同時に着工された。徳川家康の命令によるが、福島正則(左衛門大夫)が工事の奉行にあたったので、大夫堀たゆうぼりともよばれる。城の西側竜の口を起点として長さ六キロ余、幅は上流・中流が二八メートル、河口は八〇メートルを超え、熱田港(現名古屋港)に達している。

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改訂新版 世界大百科事典 「堀川」の意味・わかりやすい解説

堀川 (ほりかわ)

京都市街の中央部を南流する川。北区で賀茂川(鴨川)から分かれ,ほぼ現在の堀川通りに沿って流れ下り,南区上鳥羽で再び鴨川に合流する。全長約8.2km。平安京建設以前は堀川が鴨川の本流であったとする説もあるが,明証はない。紙屋川(天神川)を西堀川とよぶのに対し,東堀川とも称された。現在の堀川通りは平安京の堀川小路に相当し,他の小路が幅4丈であったのに対し,堀川の幅を加えて8丈幅であった(川を挟む両側の通りをおのおの東堀川通り,西堀川通りという)。二条堀川には藤原氏の邸宅堀河殿(堀河院)があり,しばしば里内裏(さとだいり)とされた。六条堀川には源氏堀河館があり,頼義以後,為義,義朝,義経など源氏累代の館であった。古くから運河として利用され,丹波から桂川へと流された材木は堀川をさかのぼって五条付近まで運ばれ,中世には材木市が立ち,商人が集住した。堀川沿いには江戸時代にも材木商が多く,儒者伊藤仁斎の生家は材木商であったと伝え,堀川学派の古義堂も堀川下立売にあった。近世後期には川沿いに染色業も発達する。現在,堀川は一条戻橋(上京区)付近までは暗渠となっており,下流でも水流がなく,排水溝のようになっている。
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堀川 (ほりかわ)

地を掘ってつくった人工の川。とくに日本の古代都城内にあって,物資の運送などに用いられた運河をいい,堀河とも記す。平安京の場合は東西両市の内側を通って堀川がつくられ,東の堀川は二坊大路と三坊大路の坊門を南北に流れており,西の堀川も対称的に同じ位置にある。前者は賀茂川,後者は桂川につながり,さらに淀川につらなっており,大規模な水運とむすびついて物資運送の重要な施設となっていた。これ以前の平城京の場合にも同じようなことがいえる。すなわち東の堀川は佐保川水系を利用してつくられ,東市内を貫流していた。発掘の結果見つかった堀川は幅10mにおよんでいる。西の堀川は秋篠川(あきしのがわ)を利用したものと思われ,西市の東辺を流れ,さらに北では薬師寺の東辺に接していた。この佐保・秋篠両河川も大和川につながって,難波の津とむすぶ水運となっていた。また平城京から南進する下ッ道の東側にも大規模な運河が見つかっているが,これと堀川との関係はまだわかっていない。さらに平城京より前の藤原京では,西は飛鳥川の水系が,東は天香久山の西の水系が堀川として使用されたらしい。
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堀川 (ほりかわ)

愛知県名古屋市内を流れる運河。1610年(慶長15)の名古屋城築城の際に,城の西側竜之口から熱田湊(現,名古屋港)まで約6kmにわたって開削された。江戸時代は尾張藩の年貢米のほか,薪炭,魚菜,塩などの舟運が盛んで,流域には藩の米蔵,重臣の控屋敷が並び,河口付近には白鳥(しろとり)貯木場,木材奉行所などがあった。現在は木工業関係の工場,倉庫が運河沿いに並び,木材運搬水路として機能している。1960年代の高度経済成長期以降汚染が急激に進んだが,その後公害規制の強化,納屋橋の改修(1982)など環境整備が進められている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「堀川」の意味・わかりやすい解説

堀川(京都市)
ほりかわ

京都市街のほぼ中央を北から南に流れる川。北区大宮頭(おおみやがしら)で加茂(かも)川から分流して南流し、南区上鳥羽(かみとば)で鴨(かも)川と合する。上京(かみぎょう)区一条戻橋(もどりばし)以北と同区押小路通以南は一部を除いて暗渠(あんきょ)となっている。延長7.5キロメートル。堀川の水を利用して友禅(ゆうぜん)染めの染物業が発達したが、川水の汚染のため、現在では地下水が利用され、堀川は排水溝同然となっている。なお、堀川に沿う堀川通は第二次世界大戦後、幅員50メートルに拡張された。沿道には二条城、西本願寺などがある。

織田武雄


堀川(愛知県)
ほりかわ

愛知県名古屋市内にある運河。名古屋城築城の際、普請奉行(ふしんぶぎょう)福島正則(まさのり)によって掘られた運河で、完成は1611年(慶長16)である。水源は庄内(しょうない)川で、導水路は黒川。城の西側から当時は海岸だった熱田(あつた)港までの約7.2キロメートルを尾張(おわり)藩は年貢米、木材、塩などの輸送水路として利用した。堀川沿いには塩町、木梚(こびき)町、納屋橋(なやばし)周辺には米蔵などの倉庫群、その南に水軍、熱田には貯木場が配置されていた。明治以後、名古屋港を軸に、新堀川、中川運河、大江川などを加えて5運河となった。

[伊藤郷平]


堀川(北九州市)
ほりかわ

遠賀川(おんががわ)中流東岸から北九州市八幡西(やはたにし)区の洞海湾(どうかいわん)奥までの全長12.5キロメートルの運河。福岡藩家老栗山大膳(くりやまだいぜん)が1621年(元和7)に着工したのにちなみ大膳堀ともいう。工事中断ののち、1762年(宝暦12)完成、灌漑(かんがい)・洪水調整用であったが、藩米輸送用に整備されたのち、明治以降は筑豊炭(ちくほうたん)の輸送運河となった。現在は輸送機能をもたない。

[石黒正紀]


堀川(近頃河原の達引)
ほりかわ

近頃河原の達引

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「堀川」の意味・わかりやすい解説

堀川
ほりかわ

京都市街地のほぼ中央を南流する小河川。鴨川の旧流路の一部にあたると考えられている。北区上賀茂で賀茂川から分流し,南区上鳥羽で鴨川に合流する。一時は九条通を西流し現鍋取川の流路をとって天神川 (現西高瀬川) に合流していたこともある。全長約 8km。平安時代以来運河として利用され,材木の輸送水路となり,中世には五条付近の沿岸に木材業者が集っていた。近世以降は友禅染の水洗いに利用された。現在では部分的に暗渠となっており,流量も少い。

堀川
ほりかわ

名古屋市西区と名古屋港とを結ぶ運河。慶長 16 (1611) 年名古屋城築城の際に開削されたもので城門前の朝日橋から大瀬古橋まで全長 7.2km,幅 22~90m,水深約 1.8m。江戸時代尾張藩の年貢米,材木などの物資の輸送に利用され,天王崎と尾頭には船番所がおかれた。その後木材や米,その他の貨物の輸送に使われ,沿岸には倉庫,貯木場が立地した。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「堀川」の解説

堀川
(通称)
ほりかわ

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
近頃河原の達引
初演
寛政9.8(大坂・藤川八蔵座)

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事典・日本の観光資源 「堀川」の解説

堀川(大膳堀)

(福岡県中間市ほか)
福岡県文化百選 水編」指定の観光名所。

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デジタル大辞泉プラス 「堀川」の解説

堀川

古典落語の演目のひとつ。「猿廻し」とも。

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世界大百科事典(旧版)内の堀川の言及

【近頃河原達引】より

…角書〈おしゅん伝兵衛〉。通称《堀川》。作者不詳。…

【賀茂川∥鴨川】より

…また下流部の伏見区中島には名神高速道路の京都南インターチェンジが設置され,鳥羽大橋と鴨川橋が架設されている。【服部 昌之】
[歴史]
 賀茂川の流路については,現在の堀川が本流で,これに出町から南西方向へ流れる高野川が合流していたのを,平安京造都時,両川を出町付近で合流させ,京域の東側を南流するように流路の新設と変更がなされたとするのが通説であるが,近時の地質調査の結果,賀茂川(鴨川)は平安遷都時にはほぼ現在の流路をとっており,変更はなかったことが明らかとなった。その位置関係から東河(とうが)ともいい,ここで大嘗祭に先立ち天皇の御禊が行われ,また斎王の祓も行われ,東河の祓と称される一方,死体の遺棄や罪人の処断が行われる場所でもあった。…

【材木座】より

…木屋座とも称した。京都堀川,木津,奈良,鎌倉,堺など主要都市にその成立が確認される。京都堀川は平安末期には諸国から搬入された材木の交易場としてにぎわったが,座の成立を確認できるのは南北朝時代である。…

【運河】より

…利根川,江戸川,淀川,大和川,北上川などで流路が付け替えられ,水運が開かれた。伊達政宗の貞山堀や遠賀川と洞海湾を結ぶ筑前の堀川も近世初期に着工された運河で,後者では明治期になると筑豊炭の輸送路として役立った。明治期に田辺朔郎が近代的土木技術によって開削した琵琶湖疏水(1890)は,大津~鴨川間の本線と,蹴上から北西へ延びる支線から成り,灌漑,水力利用,運輸を目的とした運河である。…

※「堀川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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