難波村(読み)なんばむら

日本歴史地名大系 「難波村」の解説

難波村
なんばむら

[現在地名]浪速区難波中なんばなか一―三丁目・もと町一―三丁目・みなと町一―二丁目・桜川さくらがわ一―四丁目・稲荷いなり一―二丁目・立葉たてば一―二丁目・木津川きづがわ一丁目・塩草しおくさ一丁目・同三丁目・芦原あしはら一―二丁目・久保吉くぼよし一―二丁目、みなみ千日前せんにちまえ一―二丁目・難波千日前なんばせんにちまえ・難波一丁目・同三―五丁目など

大坂三郷の南側に接する大村。南はいたち川を挟んで木津村今宮いまみや村、西は木津川に接する。元禄一三年(一七〇〇)までは下難波しもなんば村といい、大坂三郷の発展拡張に伴って村域は順次市街地化し大坂三郷に組入れられていった。

文禄検地高は不明だが、慶長一七年(一六一二)道頓堀どうとんぼり川とその両岸の町屋の用地として一五五石余が農地から市街地へと転換された(成舞家文書)。元和初年の摂津一国高御改帳には「下難波」一千五三八石余とある。元和五年(一六一九)には大坂の幕府直轄化のなかで、農地二七七石余および生玉いくたま(現天王寺区)領三三石余の計三一〇石余が市街地へと転換された。これらは瓢箪ひようたん(現西区)長堀ながほり川・横堀西よこぼりにし川の敷地となった。翌六年四石余、同七年一一石余、寛永四年(一六二七)三五石余、同七年二九石余、同二〇年四八石余が市街地化している。承応三年(一六五四)には傾城町の吉原よしわら(現西区)に一三石余が渡ったが、この時天満葭原てんまよしわら(現北区)の畑(傾城町跡地)一三石余が逆に替地として下難波村に加えられた。その後元禄一一年に堀江ほりえ(現西区)ならびにさいわい町の開発が行われ、四〇八石余が市街地化された。享保九年(一七二四)大坂城近辺の相生東あいおいひがし町・同西町(現都島区)京橋きようばし一丁目(現東区)などの敷地が火除地として収公されたため、その替地として下難波村の農地二一石余が与えられた(以上成舞家文書)


難波村
なんばむら

[現在地名]びわ町難波

新井にのい村の北東に位置する。北を川が西流し、東部であね川と高時たかとき川が合流する。合流地点の西に難波遺跡があり、五世紀後半の須恵器や水にかかわる祭祀に使用されたと考えられる土馬など、古墳時代から奈良時代にかけての遺物が出土した。

文明二年(一四七〇)五月一六日の牛頭天王寄進帳留書(八坂神社文書)に「上者すむら(酢村)のなわさかいより、下は南北郷のなわさかいまで」の牛頭天王神領を、「おとなとして裁判」することが記されている。また天文二〇年(一五五一)三月には浅井久政の家臣と思われる大橋修理らが、難波の南を流れる川の半分を当村の永領として認めており、家来が侵入した際にはおとな衆が訴出るよう告げている(「連署書状案」同文書)。古来鍛冶工が集住し、豊臣秀吉の時代より軍用を勤め諸役免除の特権も有したという。「東浅井郡志」によれば、異変、臨時の用向きなど命令次第「如何様之御軍用に而も、身命不威、飽迄相勤可申」と代々申伝えられてきた。平生は役銀のみ納め、百姓余業に鍛冶職を営み、彦根藩主井伊直孝の大坂の陣出陣に際しては徒士よりも活躍したとして褒美を与えられたという。


難波村
なにわむら

江戸時代の東難波村・西難波村一帯に所在した中世の村。「勘仲記」弘安二年(一二七九)三月一七日条に、関白鷹司兼平が方違えのために「摂州難波江館」に赴いたことがみえ、同館は浄土寺(現京都市左京区)僧正が管領しているたちばな御園内にあり、尼崎近辺に所在していた。嘉元二年(一三〇四)には浄土寺門跡から勝尾かつお(現大阪府箕面市)橘御園の年貢の一部が寄進されているが(五月一日「浄土寺門跡御教書案」勝尾寺文書)、同寺に寄進されたのは難波村など七ヵ村の年貢米であった(「寄進米上日記」同文書)


難波村
なんばむら

日本橋につぽんばし一―三丁目、西高津にしこうづ村飛地の西にあり、西は木津きづ川に接する。西成にしなり郡に属し、北東部(現千日前一―二丁目など)を除く大部分浪速なにわ区に含まれる。古くは下難波しもなんば村とよばれる大村であったが、大坂三郷の発展拡張に伴い村域内が市街地化され、三郷に組み込まれていった。道頓堀九郎右衛門どうとんぼりくろうえもん町の南手、難波村の畑地に鋳銭場があった。道頓堀裏銭吹所または単に銭吹場とよばれ、享保一三年(一七二八)から一五年の間、銅銭寛永通宝を鋳造した。中村忠兵衛・丁字屋喜兵衛・島屋嘉兵衛の三人が支配人となり、新銭は銀六〇匁につき五貫一五〇文で売出した(大阪市史)


難波村
なんばむら

[現在地名]三原町志知難波しちなんば

中島なかしま村の北東にあり、東部をまえ川、中央部を長溝ながみぞ(松本村蟇淵池に入る)、西部を水無瀬みながせ(大日川中流)がそれぞれ北流する。阿那賀あなが道が中央部をほぼ東西に通る。正保国絵図に村名がみえ、高二三二石余。天保郷帳では高二四一石余。反別戸数取調書によると反別二二町四反余、高三〇一石余、うち蔵入高一四四石余・給知高七八石余。給人は西尾理右衛門ら四人。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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