大阪市にある河川の名称,また河岸一帯の地名。町名としては川の北岸に中央区道頓堀がある。道頓堀川は東横堀川から分流し,木津川に流入する人工河川。通常中央区に属する部分を道頓堀川,西区を流れる部分を西道頓堀川と呼ぶ。その開削について従来の定説では,河内久宝寺の豪族安井道頓が豊臣秀吉に仕えて大坂城造営に従事し,功により城南の地を下賜されたが,城下町の繁栄にともない給地に漕運の要を痛感,従弟の安井治兵衛,安井九兵衛(道卜),親類の平野藤治とともに私財を投じ,久宝寺の農民を招集して1612年(慶長17)開削に着手したが,未完成のうちに大坂の陣が始まり,陣中に戦死した。陣後,安井九兵衛,平野藤治は道頓の遺志を継いで工事を再開,15年(元和1)完成した。はじめ南堀と呼ばれたが,大坂城主となった松平忠明は道頓の名を記念するため道頓堀と改めたとされてきた。しかし道頓の安井氏説に対して,摂津平野の成安氏出身であるとする有力な反対説があり,近年は道頓の姓が安井氏であることは多分に疑問視されている。道頓堀川の完成後,1618年安井九兵衛は南組惣年寄となり,道頓堀川両岸の市街地建設に従事,続いて23年宗右衛門町,御前町,布袋町,久左衛門町,立慶町,吉左衛門町,九郎右衛門町,湊町の8ヵ町を開き,26年(寛永3)には勘四郎町の芝居興行を道頓堀に移した。これ以来,道頓堀は歓楽街としてにぎわい,最盛期の62年(寛文2)には歌舞伎6座,浄瑠璃5座,説経7座,からくり1座,舞4座があったという。芝居小屋はその後天保改革により浪花,中,朝日,角,弁天の5座となり,昭和初年まで続いた。
現在は劇場の名称や上演内容も変わり,映画館,寄席,演劇場や,人形浄瑠璃文楽が興行され,また遊技場,飲食店などが集中している。千日前や難波(なんば)とともに大阪〈ミナミ〉を代表する歓楽街である。道頓堀橋,戎橋,太左衛門橋,相合橋,日本(につぽん)橋などが架設されている道頓堀川では,最近河水の汚染防止策がとられ,花壇や噴水を設けて盛場としての環境整備が進められている。
執筆者:藤本 篤
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大阪市中央部、中央区の道頓堀川南岸に沿う「ミナミ」の歓楽街。道頓堀川は、1612年(慶長17)平野(ひらの)郷の成安道頓(せいあんどうとん)が、許可を得て東・西横堀川を連絡して木津川に通じる運河の開削に着手。道頓の死後、従弟(いとこ)の安井久兵衛(きゅうべえ)道卜(どうぼく)らが引き継ぎ、延長2.4キロメートルを完成した。初め南堀とよばれたが、大坂城主松平忠明(ただあき)が道頓の功をたたえて道頓堀と名づけた。日本橋(にっぽんばし)北詰にその紀功碑がある。道頓堀の南岸は、江戸時代から芝居町として栄え、五座の櫓(やぐら)(弁天座、朝日座、角(かど)座、中座、浪花(なにわ)座)があり、船で芝居見物にきたものである。現在も、演芸場や映画館が並び、食い倒れ大阪を代表する飲食店、バー、キャバレーが軒を連ねる繁華街である。最近、汚れの激しい道頓堀川を美しくし、魚のすむ川にするため、両岸にグリーンベルトを設け、川の中に噴水をあげ、イメージアップを図っている。
[安井 司]
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