この世に怨恨(えんこん)や執念を残して死んだ者の霊が成仏(じようぶつ)できずに,この世に現す姿のこと。幽霊とは元来死霊を意味する言葉であるが,まれには生者の生霊が遊離して幽霊となることもある。この点は,物の怪(もののけ)と類似する。現今では,幽霊とおばけ(化物(ばけもの))は混同されているが,幽霊は生前の姿または見覚えのある姿で出現してすぐにだれとわかるし,また特定の相手を選んで,どこにでも出現するのに対し,化物は出現の場所や時間がほぼ一定しだれ彼れかまわず出現する。しかも,化物は別の存在に姿をかえ正体が不明であるために,人は驚き恐れるのである。幽霊も化物も,ともに日本人の霊魂観念や聖地信仰に根ざした怪異現象であるから,幽霊も墓地や川べりの柳の下などの特定の場所や丑三つ時(午前2時ごろ)など特定の時間に出現するといわれている。
幽霊は古くは生前の姿で現れることになっていたが,江戸時代にはだいたい納棺された死人の姿で出現し,額には三角の白紙にまんじやシの字を書いた額烏帽子(ひたいえぼし)をつけ白衣を着ていた。またそれまでは,謡曲の中の幽霊のように,何かを告知したり要求したりするために出現していたが,しだいに怨恨にもとづく復讐や愛執のために出現するようになり,凄惨の度を増していった。享保(1716-36)ごろからは,幽霊の下半身ももうろうとなり,さらに下るとひじを曲げ,手先を垂れる姿勢となって,後世の幽霊の姿が定型化していった。元禄年間(1688-1704)刊行の《お伽はなし》では,幽霊にはみな二本足があるが,《太平百物語》(1732)には幽霊の腰から下は細くなって描かれている。横井也有の《鶉衣(うずらごろも)》(1785-87)には,腰から下のあるものもないものもあると記されている。こうした幽霊の定型化には,《番町皿屋敷》や《四谷怪談》など,文芸や演劇からの影響も少なくなかったと思われる。
幽霊の多くは非業(ひごう)の死を遂げたり,思いをこの世に残して死んだ死霊であるから,その望みなり思いなりを聞きとどけ妄執を解消し安心させてやれば,姿を消し浮かばれるという。葬式の際の願戻しや死後の口寄せ,さらに施餓鬼(せがき)供養などは,ある意味で成仏を容易にし幽霊化を防ぐ手段といえる。
昔話には〈子育て幽霊〉や〈幽霊女房〉などの話があり,切られると出血したりする幽霊松の伝説も知られている。また海上には水死者の亡霊が船幽霊として出現し,船のこべりに尻を外にして腰かけるのを幽霊の腰かけ方だという意味で〈幽霊尻〉とか〈幽霊腰〉という。墓地によく生えるのでヒガンバナを〈幽霊花〉という地方もある。
執筆者:飯島 吉晴
西洋でも弔われない人,殺害された人,責任・希望を遂げないまま死んだ人,罪人などがことに幽霊になって出ると考えられる。加害者が発見されないと,殺害された人はいくところへいけず,加害者がその死体に近づくと傷口が破れる。責任・希望を遂げないまま死んだ人も同様で,許嫁(いいなずけ)のまま死んだ処女は幽霊になって花婿を訪れ,産婦の幽霊は乳児の寝床の側に立ち,夜間死体から生き返って人の生血を吸う吸血鬼は自分の家族たちの血を吸い尽くす。良心のとがめにせめられる罪人たちも死にきれずに生存者を脅かす。生前自分の畑の境界石を動かしたり取り除いた罪人は,夜中旅行する人の背中におぶさる。死人たちの希望がかなえられると初めて死に,地下,島,山などにある冥府(めいふ)へいく。
西洋の幽霊は生前の姿のまま現れたり,骸骨,頭のない人間,古代の衣装を着た姿,白い姿または透明な幻のような姿,火の玉,またしばしば動物の姿をしている。彼らが現れる際には無気味な音楽,雷鳴,とびらのノックが聞こえたり,人の背中や身体に乗りかかってきたり,大きな音を立てたりする。彼らがよく現れる場所は墓場,殺害現場,刑場,廃墟,空屋敷,四つ辻,橋などで,現れる時刻はたいてい真夜中,0時から1時の時刻は幽霊時と呼ばれるくらいであるが,一番鶏が鳴くと消えうせる。しかしときには真昼に現れることもある。時節としては秋,待降節,クリスマス,新年,謝肉祭,ヨハネ祭などが多い。彼らは降霊術師,霊媒の呪文で冥府から呼び出され,未来,過去の事柄を尋ねられる。ドイツでは万霊節(11月2日)に死人たちは長い列をつくり,また死んだ子どもたちは白い肌着を着け,母がわりのホレばあさんFrau Holleに引率されて,この世を訪れてきて,さびしい寺院などで彼らのための供養ミサにつらなる。その日,墓場に鬼火がみえるのは彼らがきているしるしとされる。
幽霊を退けるには祈り,薫香,十字架,喧騒,鳴鐘,火,光,鉄製品(剣,蹄鉄など)がきき目があり,僧,処刑人,旅手品師,ジプシー,魔法使いは幽霊を呪縛する力をもっている。罪のない小児,処女,その他選ばれた人たちは幽霊を救済して正しく死なせ,逆児(さかご)で生まれた子どもや,日曜日,四季の初日,万霊節などに生まれた子どもは千里眼で幽霊をみる能力があり,馬,犬は人間よりも幽霊に対して敏感であると信じられている。20世紀でも霊魂信仰は交霊術,催眠術などの形で,都会においてさえ力を得ている。
→化物 →妖怪
執筆者:妹尾 幹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
死者の亡霊がこの世に現れるものをいう。
[大藤時彦]
青森県では人玉(ひとだま)といい、やはり人の姿で現れるという。橘南谿(たちばななんけい)の『東遊記』(1795~98)には、秋田県地方では死に近い人の人魂が近親や友人の家を訪れるとある。あまり口をきかないという。同地方の仙北(せんぼく)郡では男の幽霊は家の入口から、女の幽霊は台所からくるという。『新潟県史』には、幽霊が河岸に現れて渡し船を出してくれといったという話がある。船頭には人影は見えなかったが、人が乗り込んだ感じがしたので船を出して対岸へ渡ると、幽霊は礼をいって去ったという。
わが国は島国であるためか、海の船(ふな)幽霊の話が多い。幽霊船が現れて柄杓(ひしゃく)を貸してくれという。そのとき柄杓の底を抜いて渡すものだという。そうしないと柄杓で水をくんで水船にされるという。紀州(和歌山県)などでは、幽霊船が出たらかまわずぶつかっていくと消えてしまうという。幽霊は室町時代以後、謡曲や歌舞伎(かぶき)の題材として取り上げられるようになった。幽霊には足がないとされているが、これは円山(まるやま)応挙の絵が有名になったためでもあり、古くは足があったという。津村淙庵(そうあん)の『譚海(たんかい)』(1795)によると、相州(神奈川県)に灯明台があるが、そこへ7月13日にかならず幽霊が集まったという。難船した乗組員といわれている。山口県下関(しものせき)市の永福寺では、7月17日に幽霊祭を行い秘蔵の幽霊画を披露する。これを参観して帰ると家庭円満になるという。
[大藤時彦]
18世紀ドイツの著述家リースベックJ. K. Riesbeckによれば、彼がバンベルクの町にやってきたとき、ある通りに夜の11時から12時までの間は頭のない男が出没するというので、夜警がこの時間帯には勤務を拒否しているという話を聞いたという。18世紀といえば、まさに啓蒙(けいもう)主義の時代だが、夜警をはじめバンベルクの人たちは「頭のない幽霊」の実在を信じていたわけである。また同時代のドイツの著述家シュトロームベックF. K. v. Strombeckの自邸には葬儀用具を保管する部屋があったが、そこから夜な夜な先祖たちが列をなして現れ、家の中を通って地下室へ入っていったという。一家の危急に備えて地下に保管されている財宝を守るためだと言い伝えられているのだが、当時でも多くの上流家庭にこのような家霊というか、財宝を守護する幽霊の伝承があった。さらに、1725年にドイツのホーエンツォレルン侯国の狩猟局は、妖精(ようせい)や霊たちをとらえた者には五フローリンの賞金を出すと布告しているし、ウィーンの宝物殿には、ある男に取り憑(つ)いた守護霊というものをガラスの箱に入れて展示してあった。幽霊といえば、その実在が一般に信じられていたのは遠い古代・中世のことと思われがちだが、実は200年前のヨーロッパにもさまざまな形で幽霊の存在は信じられていたのである。
ハイネの作品にも幽霊話がよく出てくる。宴会用に台所で大ぜいの人たちが料理をつくっているとき、見知らぬ若者がそのなかに混じって立ち働いているのに気づいた主婦が、あなたはだれで、どこからきてくれたかと尋ねると、地下室を見てくれればわかる、と若者が答えた。あとで主婦が地下に降りてみると、ブドウ樽(だる)の中に赤ん坊の死体が浮いていた。昔、自分がひそかに生み落とした赤ん坊をこうして始末しておいたのが、幽霊になって手伝いにきたわけである。
このように、人間の肉体が死んでも魂は死なずに現世をうろついたり、家霊となって意識的に家宝を守ったり、現世への未練心から現世にとどまったりする話は西洋にもたくさんある。霊が他人や動物にのりうつったり、夢のなかで魂が肉体から離れてさまようこともある。古代ローマでは町の地下に死者の霊が住むと信じ、地下にその住居をつくってやったり、穴の出口をふさいでいる幽霊石を祭り日にだけあけて出入りを自由にさせた。人々は、生者を守ろうとする幽霊からはその霊力を借りようとするし、生者に害を加えようとしたり、あの世へ連れ去ろうとする霊に対しては、これを経文などによって遠ざけたり、警戒したり、その機嫌をとったりした。殺された人や弔われない人、処刑された人、望みを果たさないまま無念に死んだ人たちの幽霊は、生者がこれを慰め、弔い、希望をかわってかなえてやることによって消え去るものともされた。
幽霊は、生前のまま、殺されたときのまま、骸骨(がいこつ)、首なし、白衣、あるいは、透明な幻として現れ、気味悪い音楽や雷鳴、ドアをノックする音などを伴うことが多いし、出現する場所も、墓場、殺された場所、刑場、寺院や城の跡、町の辻(つじ)、橋などが多く、夜明けに鶏が鳴くと姿を消す場合が多い。万霊節(11月2日)に死者たちが列をなして現れ、寺院の供養に参加し、夜は墓場に鬼火となって現れるともいわれる。
幽霊物語は18世紀後半から発達し、ホレス・ウォルポールの『オトラントの城』(1764)はその草分けといわれる。その後、ホフマン、ティークや、ポーらの諸作品が人気をよんだが、それらは単なる架空の話としてよりも、むしろ、民衆のもつ実在感によってさらに迫力のあるものとして受け取られたと考えるべきであろう。
[飯塚信雄]
『マックス・フォン・ベーン著、飯塚信雄他訳『ドイツ十八世紀の文化と社会』(1984・三修社)』
ノルウェーの劇作家イプセンの三幕戯曲。1881年発表。前作『人形の家』(1879)が結婚と家庭を破壊するものとの世間の非難に答えて、虚偽の結婚生活を続ければ、いかなる非惨な結果が生じるかをえぐった作品。主人公アルビング夫人は愛のない結婚に耐えかねて家を飛び出すが、牧師に説かれて戻り、身を持ち崩して廃人化した夫に仕え、その死後は遺産を投じて夫を記念する孤児院まで建てる。しかし孤児院は焼け落ち、夫の病毒を受けていた息子オスワルドは失明に瀕(ひん)して「おかあさん、太陽を」と叫んだまま狂い死ぬ。過去の亡霊がまだ生きてたたっているのだ。前作以上に社会の腐敗と悪をあばき、遺伝の問題も絡ませ、もっとも力強い効果をあげている。日本では1912年(明治45)有楽座で演芸同志会が初演。
[山室 静]
『竹山道雄訳『幽霊』(岩波文庫)』
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…78年2月ベルリンの五つの劇場が同時に上演している。続いて《人形の家》(1879),《幽霊Gengangere》(1881),《人民の敵En folkefiende》(1882)といった近代の代表的な〈社会問題劇〉(社会劇)によってイプセンの名は世界的になる。なかでも梅毒遺伝を扱った《幽霊》は,ゾラの提唱した自然主義演劇の典型とみなされ,どこの劇場もすぐには上演しようとしなかった。…
…また,大入道や一つ目小僧のように巨大な姿や片目片足などの姿で現れたり,狐・狸・狢(むじな)などのように人をアヤカシたりマドワカシたりするものもある。 一般通念としての〈化物〉は,幽霊や亡霊,狐狸,鬼天狗,怪物などの類まで含んだ非常にあいまいな概念で,〈おばけ〉と呼ばれることが多い。しかし,民俗学では,化物と幽霊は別の存在であるととらえる。…
…この語は平安時代に多用され,その正体のほとんどが恨みをもつ生霊や死霊であって,鬼の姿でイメージされた。古代から現代まで,さまざまな妖怪が登場しそして消え去っていったが,そのなかで,鬼や天狗,河童,山姥,一つ目小僧,やや性格が異なるが,つきものや幽霊などが,今日でもその名がよく知られている。 妖怪は,一般的には,人間に敵対する恐ろしい存在である。…
※「幽霊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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