霞ヶ関一丁目(読み)かすみがせきいつちようめ

日本歴史地名大系 「霞ヶ関一丁目」の解説

霞ヶ関一丁目
かすみがせきいつちようめ

[現在地名]千代田区霞が関二丁目・永田町ながたちよう一丁目

明治五年(一八七二)に成立。外桜田そとさくらだ町の南、霞ヶ関二丁目の西、裏霞ヶ関うらかすみがせき町の北、永田町一丁目の東に位置する。東側の通りを北上すると外桜田門から皇居外苑こうきよがいえんへ、南下すると虎門から芝方面へ至る。江戸時代には外桜田の武家地の一画をなし、桜田御門外さくらだごもんがいあるいは当地の北側、安芸広島藩浅野家上屋敷(外桜田町)との間の坂の名にちなみ霞ヶ関と通称された。慶長期(一五九六―一六一五)以来、当地のほとんどを筑前福岡藩黒田家上屋敷が占め幕末に至っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む