鞍懸城跡
くらかけじようあと
字城山・城・城下が遺称地と考えられる。南北朝期頃奥畑にあった馬頭寺(神宮寺)を掘崩して築城されたといわれているが(豊田家文書)、戦国期には桂川中流域右岸の野添地区に移ったという。正平四年(一三四九)八月日の深江種重軍忠状写(筑前深江文書)に「殊鞍懸・高牟礼・高崎等御退治」とみえる。応安年間(一三六八―七五)頃大友氏継は都甲三郎四郎に対し鞍懸城に攻め寄せた南朝軍と連日合戦に及び撃退した軍功を賞している(四月五日「大友氏継感状案」都甲文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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