大友義統(読み)おおともよしむね

改訂新版 世界大百科事典 「大友義統」の意味・わかりやすい解説

大友義統 (おおともよしむね)
生没年:1558-1605(永禄1-慶長10)

豊後本拠とした戦国末~豊臣期の大名宗麟の子。1575年(天正3)ころ豊後,豊前筑前筑後肥前肥後と日向の一部を父より相続。78年島津氏制圧のため日向に出兵して大敗。権力中枢の年寄過半を討死させ,権力機能が低下したため国内反乱,島津氏北上に対抗できず,86年豊臣秀吉の出兵に救われ豊後一国の大名となる。93年(文禄2)秀吉朝鮮侵略で出兵中,明の大軍と戦わずして退去したため改易。関ヶ原の戦の際,豊後で再起をはかったが失敗。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大友義統」の意味・わかりやすい解説

大友義統
おおともよしむね
(1558―1605)

戦国時代の武将。義鎮(よししげ)(宗麟(そうりん))の長子。幼名長寿丸、のち将軍足利義昭(あしかがよしあき)の諱(いみな)を得て義統と称す。1576年(天正4)家督を相続したが(一説に79年)、政事はすべて父の手にゆだねられていた。87年豊臣(とよとみ)秀吉の島津征伐に従い功あり、豊後(ぶんご)(大分県)一国の安堵(あんど)を受けたが、文禄(ぶんろく)の役に従軍、平壌退却で秀吉の怒りを買い、封を没収され毛利輝元(もうりてるもと)に預けられた。秀吉の死後、徳川家康に近づいたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、東国に幽せられ、常陸(ひたち)(茨城県)宍戸(ししど)(一説に江戸・牛込(うしごめ))で没した。先に87年宣教師より受洗、コンスタンチノの教名を受けたが、のち秀吉の意を迎え棄教、領内信徒を迫害した。

[箭内健次]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大友義統」の解説

大友義統 おおとも-よしむね

1558-1605 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)元年生まれ。大友宗麟(そうりん)の長男。豊臣秀吉の九州攻めにしたがい,豊後(ぶんご)(大分県)一国を安堵(あんど)される。文禄(ぶんろく)2年朝鮮出兵で明(みん)(中国)の大軍とたたかわずに退却し,除封。関ケ原の戦いでは西軍についたため,出羽(でわ)秋田郡の秋田家にあずけられた。慶長10年7月19日死去。48歳。名はのち吉統。幼名は長寿丸。洗礼名はコンスタンチノ。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大友義統」の意味・わかりやすい解説

大友義統
おおともよしむね

[生]永禄1(1558)
[没]慶長10(1605).7.19. 江戸
戦国大名。義鎮の子。豊臣秀吉の島津征伐に従って豊後を安堵されたが,朝鮮の役中の卑怯な行動で所領を没収され,のち関ヶ原の戦いでは豊臣方について豊後で挙兵したが,黒田氏のために敗れ,江戸幽居中死亡。

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世界大百科事典(旧版)内の大友義統の言及

【大友宗麟】より

…戦国期に豊後を本拠とした大名。義鑑(よしあき)の子。実名は義鎮(よししげ),入道して三非斎,府蘭,円斎,宗滴と号す。キリシタン大名と呼ばれるが受洗は隠居後。受洗名フランシスコ。1582年(天正10)大村氏,有馬氏とともに天正少年使節団を派遣したといわれるが,使節持参の宗麟書状は偽文書で,少なくとも宗麟に関するかぎり使節は偽使。キリシタンに好意を示した動機は明らかに貿易が目的で,豊後府内沖ノ浜などを南蛮船の貿易港とし,フィリピン等へ貿易船を派遣するなど十分な成果をあげた。…

※「大友義統」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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