飯柳新田
いやなぎしんでん
[現在地名]新津市飯柳
能代川右岸の低地に位置し、北西は柄目木新田。慶長年間(一五九六―一六一五)真柄仁兵衛の開発と伝え(「書付」真柄家文書)、寛文七年(一六六七)と推定される新発田藩の御領内見分之書付(貴船家文書)に家数二四・人数一七一とある。寛永一九年(一六四二)大関村との間に井戸内開新田をめぐる境界争論が起こり、江戸訴訟となった。新津組大庄屋古田九右衛門、新津町名主井浦太郎兵衛の長男三四郎らは江戸へ上り、実地見分を受けた結果、飯柳新田側の勝訴となり、記念に一七の塚を造り、大関村との境界に利運橋を架設したと伝える(中蒲原郡誌)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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