神明宮(読み)しんめいぐう

精選版 日本国語大辞典 「神明宮」の意味・読み・例文・類語

しんめい‐ぐう【神明宮】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙しんめいしゃ(神明社)[ 一 ]
  2. [ 2 ] 栃木県栃木市旭町にある神社。旧県社。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。応永元年(一三九四)の創建。神明様。

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日本歴史地名大系 「神明宮」の解説

神明宮
しんめいぐう

[現在地名]八戸市廿六日町

廿六日にじゆうろくにち町の西端に位置する。祭神は天照皇大神で、旧村社。豊受神・誉田別尊・天児屋根命を合祀。境内社に走前神社・火産霊神社・大山祇神社・走是社がある。

宝暦五年(一七五五)の堂林寺門間数改書上帳(常泉院文書)に「廿三日町神明御堂」とある。八戸藩日記の寛文九年(一六六九)一月一六日条に「御伊勢堂御建立奉行」とみえ、一一月二日条には「御伊勢御遷宮昨日相済候」とある。社伝によれば往古金浜かねはま村にあったものを新井田にいだ村に移し、その後中居林なかいばやし村へ移して、さらに長者ちようじや山へ遷宮したとされる(八戸藩史料)


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]岡崎市元能見町

松応しようおう寺の後方北東、伊賀いが川の南岸に近い低い台地上に位置する。能見神明社と通称し、祭神は天照大神ほか四柱。旧村社。伝承では、もと材木ざいもく町東の久後くごにあった稲前いなさき天神社が、田中吉政時代の城地拡張のため現地に移転したという。また上青野かみあおの町の真宗大谷派本晃ほんこう寺は、寺伝によれば神領山と号し、長徳三年(九九七)に能見原に創建された天台宗の寺で、式内霧降山稲前神社の別当であったが、蓮如の頃真宗に転じた。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]白馬村大字神城 沢渡 三日市場

沢渡の神明社さわどのしんめいしやともよばれるこの神社には、天照大神を祀る神明社、健御名方命を祀る諏訪社、誉田別尊を祀る八幡社の三殿が並立し、神明社を本殿とする。

このうち神明社と諏訪社の二殿は、ともに天正一六年(一五八八)二月に造立された旨を記した棟札が保存されており、その銘文によると三日市場みつかいちばに居館しじよう一帯を支配していた沢渡九八郎盛忠とその息牛乗が造営奉仕を行い、大工には現大町おおまち市大字大町に居住した金原周防が棟梁として従事していることが知られる。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]藤岡市中栗須

温井ぬくい川の右岸に鎮座する。祭神は天照大神。旧郷社。縁起によると源頼朝の心願によって碓氷うすい磯部いそべ(現安中市)の住人佐々木三郎盛綱が命を受け建久三年(一一九二)勧請したという。天正一〇年(一五八二)の神流川合戦の兵火で焼失し、多くの史料も失ったという。高山たかやま御厨内に伊勢に倣って祀られた内宮とされる。天正一四年正月の造営勧進帳(佐々木文書)によると、同一〇年の焼失再建のために、中栗須なかくりす郷・しもノ郷(下栗須)おかノ郷・立石たついし郷・もりノ郷・中村なかむら郷・上ノ郷(上栗須)の七郷の氏子七七人余が勧化している。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]弘前市東城北二丁目

小人こびと町の北側、田圃を隔てた地にある。旧向外瀬むかいとのせ村の村域内であるが、町方の社で小人町に属していた。祭神は伊弉冉尊ほか(「寺社領分限帳」国立史料館蔵)。旧県社。

正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、伊勢太神宮と記され、神主二軒を社前に置く。「津軽一統志」によれば、慶長七年(一六〇二)津軽為信が伊勢の宗廟を弘前城内に勧請したという。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]黒石市前町

まえ上ノ坂かみのさかにあり、天照皇大神を祀る。文禄年間(一五九二―九六)現在地に小祀があったと伝える(新撰陸奥国誌)。延宝五年(一六七七)には山内伊勢太夫が別当であったという(南津軽郡是)。神明宮は黒石津軽家代々の祈願所で、天和二年(一六八二)の棟札によれば、初代信英を願主として再興されたという(新撰陸奥国誌)。宝永五年(一七〇八)神明宮への社道がつくられたが、「往昔は観音堂の道路と一筋にて不都合」であったためという(「御宮伝記神職由緒留書」黒石地方誌)。享保三年(一七一八)には社人三二人をもって盛大に大祭が行われ(同留書)、同一六年黒石津軽家の材木寄付によって神楽殿ならびに祇園社が建立された(「小野川日記」黒石地方誌)


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]中里町豊岡 緑川

豊岡とよおかの南端鳥谷とりや川右岸にあり、祭神は天照大神、祭日は祈年祭四月九日、例祭五月一六日、新嘗祭一一月二三日。

元禄三年(一六九〇)金木新田一八ヵ村の総鎮守として勧請したともいい(中里町誌)、明治初年の「新撰陸奥国誌」では「当社は津軽信政元禄元年新墾田の砌鎮護の為めに草創」ともある。元文二年(一七三七)検地帳に次のようにある。

<資料は省略されています>

「新撰陸奥国誌」に相殿であった加茂神社は祭神別雷神・倉稲魂神で、明治六年(一八七三)神明宮より分離したが「元禄十三年本村と同く草創せりと云ふ」と記し、「御供鳴弦御守二通あり」とする。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]中里町中里 亀山

中里集落のほぼ中央東部山上にあり、祭神天照大神。

貞享四年(一六八七)の検地帳に「神明社地三拾六間半 拾三間壱反五畝弐拾四歩 宮建有之 同坊抱」とあり、同坊とは「法花寺正宅坊」すなわち薄市山弘法ぐぼう寺の僧で、この頃は同寺東方の山頂にあったといわれる(中里町誌)。文化五年(一八〇八)の庄屋久左衛門書上(加藤寿綿氏蔵)にも同様の記事があるが、安政二年(一八五五)の神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)に「神明宮一宇 右建立年月不詳候得共寛文三年再建其後破壊ニ及候処嘉永元年同村重立百性中家ニ相談之上再建仕候」とあり、本殿に掲額された同社修徒神明祠記によると、嘉永元年(一八四八)現在地に移し、社堂を建立したとある。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]美麻村千見 境ノ宮

土尻どじり川が松代まつしろ領(現上水内かみみのち小川おがわ小根山おねやま)に流入する境に位置し、境宮さかのみや神明宮ともとなえる。祭神は天照大神・豊受大神

当社には慶長一七年(一六一二)社殿を造立した旨を墨書した棟札が保存されている。これによれば、大檀那には当地の千見口留番人を務めた下条三助の名がみえ、社人傘木和泉大夫、大工与右衛門と記されている。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]村松町石曾根 本村

愛宕原あたごはら扇状地末端の平坦地に鎮座。前を国道二九〇号が通る。祭神は豊受姫命・田心姫命・瑞津姫命・市杵島姫命の四神。大同元年(八〇六)の創立と伝える。石曾根いしぞねの開発とともに本村ほんそんの産土神として祀られてきた。正保元年(一六四四)に村松藩主堀直吉が入封して以来、歴代藩主の崇敬が厚い。明暦二年(一六五六)に社殿を再建。年々社領米一〇石宛の寄進があった。同三年に除地六反余を付せられ、寛文七年(一六六七)には領内六社の一つに数えられた。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]新発田市大手町一丁目

豊受姫命・大汝命などを祀り、旧村社。初め職人しよくにん町にあったが、寛延元年(一七四八)、その北側の下鉄砲しもてつぽう町の足軽屋敷の一部を取払って新たに建立された。この遷宮に際しては藩から米三〇俵と金一〇両、家中からは知行高一〇〇石につき一貫文の割合で寄進された。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]深浦町深浦 浜町

沖から深浦湾に向かって正面の小高い所に鎮座する。旧郷社。祭神は天照大日命・伊弉諾命・伊弉冊命。寺社領分限帳(国立史料館蔵)によれば、寛文一一年(一六七一)の創立とある。「深浦町史」では寛永一一年(一六三四)二代藩主津軽信枚が、海上航行の安全と国中安泰祈願のため、現在の吾妻沢あづまざわ付近という吾妻館跡に勧請したという。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]弘前市三世寺 色吉

三世寺さんぜじ集落の西端色吉いろよしにある。旧村社。祭神は不明。

正徳元年(一七一一)の寺社領分限帳(市立弘前図書館蔵)によれば、大日堂馬頭観音・弁天宮を擁し、藤崎ふじさき(現南津軽郡藤崎町)の吉宮太夫の預りとある。「新撰陸奥国誌」によれば、相殿に中崎なかざき村より移した月夜見神を祀るとある。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]七戸町 町

七戸城跡の南東端に位置する。祭神は大日貴命で、旧郷社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に「一御城下川原町神明社 本山派吉祥 右者七戸御町中寄附勧請年月由緒相知不申候、尤行信公御願書御奉納左之通」とあり、寛文四年(一六六四)五代藩主南部行信により神額・大般若・神馬・堂・大まつりが奉納されている。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]五所川原市 下り枝

旧五所川原町の東の下り枝さがりえだにある。祭神天照大神。旧郷社。寛文四年(一六六四)喰川しよくかわ村道の裏手に八幡宮として勧請(五所川原町誌)。貞享四年(一六八七)の検地帳に八幡社地とある。同年喰川村・平井ひらい村・柏原かしわばら村・五所川原村の四ヵ所で建立(安政二年「神社微細社司由緒調書上帳」最勝院蔵)


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]平内町小湊 前萢

小湊こみなとの集落東にある。祭神は天照大神、旧村社。開創は慶長年間(一五九六―一六一五)福館ふくだて城主七戸隼人が浜子はまご村に建立、寛永八年(一六三一)藩命により現在地(旧沼館村地籍であったが管轄が変わった)に遷座し付近一帯の鎮守となる。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]木造町出野里

出野里いでのさと集落の西の中ほどにある。祭神天照皇太神、旧村社。神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)や寺社領分限帳(国立史料館蔵)によれば、正徳六年(一七一六)の創立とあり、「西津軽郡史」では貞享三年(一六八六)の創立という。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]木造町永田 千代

永田ながた集落の中ほどにあり、祭神は天照大神、旧村社。神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)や寺社領分限帳(国立史料館蔵)によれば、貞享三年(一六八六)の創立。末社・合社に大日堂があり、「新撰陸奥国誌」では、明治三年(一八七〇)神仏分離で仏像は弘前最勝さいしよう院へ納めたとある。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]栃木市旭町

近世、栃木町の総鎮守でよこ町に鎮座。祭神は天照大神、旧県社。応永元年(一三九四)栃木城内とちぎじようないの神明宿に創建したと伝える。応永一〇年銘のほか天正一七年(一五八九)・文禄二年(一五九三)銘などの棟札が残る。天正一七年の棟札は、当社が皆川広照によって栃木町大通り(のちの例幣使街道)東側に移転されたと伝えることを裏付けるものか。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]大間々町大間々 川久保

渡良瀬川右岸の断崖寄りの低地に鎮座。旧郷社。祭神は大日命ほか二二柱。由緒によれば、慶長年間(一五九六―一六一五)伊勢内宮より分霊を勧請、正徳五年(一七一五)伊勢外宮より分霊を勧請合祀。天保七年(一八三六)領主出羽松山藩酒井石見守の祈願所となった。


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]五戸町 神明後

しん丁の東の丘陵地に位置する。祭神は天照皇大神で、旧村社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に神明宮とあり、別当は修験慈正院で、五戸年行事多門院の配下に属していた。延宝三年(一六七五)の勧請と伝える(新撰陸奥国誌)


神明宮
しんめいぐう

[現在地名]岩木町如来瀬 山田

如来瀬によらいせ集落の西、丘陵の中腹にある。明治四年(一八七一)神仏分離によって神明宮になった。以前は如来堂と称し、寛永六年(一六二九)修験仙明坊が別当になったという(新撰陸奥国誌)。仙明坊の屋敷跡は当社の南隣の寺屋敷と称する所で、明治初年頃で一一代であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「神明宮」の解説

神明宮

(東京都杉並区)
杉並百景」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の神明宮の言及

【神明社】より

…天照大神または伊勢内外宮の神をまつった神社。神明宮,神明神社,太神宮,伊勢宮(いせみや)などともいう。神明とは神と同義で,中国の古典《左伝》《書経》にも見え,日本でも古くから用いられた語であるが,平安時代末期ごろから天照大神をさす語としても使用されるに至った。…

※「神明宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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