大関村(読み)おおせきむら

日本歴史地名大系 「大関村」の解説

大関村
おおせきむら

[現在地名]村上市大関

門前もんぜん川右岸の平地にあり、南東鋳物師いもじ村、北東小谷おだに村、北西上相川かみあいかわ村に接する。門前耕雲こううん寺領を守るための関が置かれていたとも伝えられる。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「鮎川分大国但馬分大せき村 中」とみえ、本納六七石二斗五合・縄高一一三石六斗八升九合、家四軒とある。正保国絵図では高一六〇石余。天保九年(一八三八)の日下組村々御案内帳(小田彦左衛門氏蔵)によれば高二二一石一斗余・田畑三二町余、家数二一(うち百姓一七・水呑四)・人数一二八、馬一八。


大関村
おおぜきむら

[現在地名]下館市大関

小貝こかい川右岸に位置し、北は八田はつた村。中世小栗おぐり御厨に属し、下野国那須七騎の一人として知られる大関資増は当地の出身といわれる(下野国誌、新編常陸国誌)。慶長二年(一五九七)の真壁郡麦田検地(彰考館蔵)には「大関村(中略)合三反八畝拾六歩、右之麦三石八斗五升三合、此内三ケ二引、残而壱石弐斗八升四合御上納」とある。近世中期までの支配は明らかでないが、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(中村家文書)には村高六七六・六〇八石、鎮守鹿島明神、家数三五、馬七、斎藤但馬守知行所とあり、旗本領であった。


大関村
おおせきむら

[現在地名]燕市水道すいどう町二―四丁目・大関

大田おおた村・大曲おおまがり村の西、小関こせき村の東にある。正保(一六四四―四八)の頃、大田村小関村の間の沼地を本間兵次郎なる者が開発、各一字を採り大関新田と称し、慶安二年(一六四九)村上藩領となり、寛文六年(一六六六)検地を受け改称したという(西蒲原郡誌)元禄郷帳小関村の枝郷とし七二石三斗余。


大関村
おおせきむら

[現在地名]新津市大関

能代のうだい川右岸の低湿地に位置し、西は小口こぐち村、東は岡田おかだ村。上杉氏の臣大関氏が支配した地と伝え、慶長年間(一五九六―一六一五)には大関弥七郎親憲の居館があったという(中蒲原郡誌)。正保国絵図に村上藩領として村名があり、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高二七〇石余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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