高内又七(読み)たかない・またしち

朝日日本歴史人物事典 「高内又七」の解説

高内又七

没年:元禄頃(1688~1704)
生年:寛文頃(1661~73)
江戸中期,伊予国(愛媛県)松山藩奉行で農政改革家。名は親昌。4代藩主松平定直の治世,相次ぐ飢饉,洪水,大風雨によって打撃を受けた藩財政の再建に当たり,成功した。年ごとに予想収穫高に対して年貢を定める従来の検見取を廃して,あらかじめ一定期間の年貢を決める 定免制を断行した。負担の均衡による下級農民の救済と,生産意欲の向上による増産を期待したもので,これを成功させる方便として,寛文7(1679)年の「新令廿五条」によって土地割換制を併用した。この布達のなかでは農民負担の軽減を力説し,さらにすすんで荒廃地の再開発,貯水池の構築などの積極策を実施した。19年にわたる改革の成功により,藩の借財の毎年10万俵弁済が可能になった。彼の政策は長く藩領で踏襲された。<参考文献>『垂憲録拾遺』『却睡草』(伊予史談会双書12,13集)

(景浦勉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高内又七」の解説

高内又七 たかない-またしち

?-? 江戸時代前期の武士
伊予(いよ)松山藩士。延宝6年(1678)藩主松平定直により総奉行に登用される。検見取(けんみどり)制から定免(じょうめん)制への税制の改革,荒廃地の再開発,用水池改修など農政改革にとりくみ,藩財政の再建につくした。名は親昌(ちかまさ)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の高内又七の言及

【松山藩】より

…定行は松山城の改修,道後温泉の整備,緋の蕪(かぶら)の生産,タルトや五色そうめんの製造と関連して知られている。寛文年間(1661‐73)藩財政の窮乏のなかで,延宝期(1673‐81)に高内(たかない)又七による災害復旧と財政再建,農村では地坪(じならし)制と定免(じようめん)制の実施という改革がなされた。4代定直は文学愛好で知られ,みずから榎本其角,服部嵐雪らに教えを受け,元禄期(1688‐1704)に松山文化の発達を見る。…

※「高内又七」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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