朝日日本歴史人物事典 「高内又七」の解説
高内又七
生年:寛文頃(1661~73)
江戸中期,伊予国(愛媛県)松山藩奉行で農政改革家。名は親昌。4代藩主松平定直の治世,相次ぐ飢饉,洪水,大風雨によって打撃を受けた藩財政の再建に当たり,成功した。年ごとに予想収穫高に対して年貢を定める従来の検見取を廃して,あらかじめ一定期間の年貢を決める 定免制を断行した。負担の均衡による下級農民の救済と,生産意欲の向上による増産を期待したもので,これを成功させる方便として,寛文7(1679)年の「新令廿五条」によって土地割換制を併用した。この布達のなかでは農民負担の軽減を力説し,さらにすすんで荒廃地の再開発,貯水池の構築などの積極策を実施した。19年にわたる改革の成功により,藩の借財の毎年10万俵弁済が可能になった。彼の政策は長く藩領で踏襲された。<参考文献>『垂憲録拾遺』『却睡草』(伊予史談会双書12,13集)
(景浦勉)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報