高台院竪町
こうだいいんたてちよう
町の中央を南北に裏門通が通り、西の大部分は正親小学校。平安京大内裏「大宿直」の跡地(「拾芥抄」の宮城指図)。
町名は近世初期、聚楽第が造営された時、当町付近に豊臣秀吉の妻、高台院が居住していたことによるという(坊目誌)。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「立小大寺立丁」と記されるが、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図では「かうだいいん丁」、寛文後期の洛中洛外之絵図では「本丸西ノかわ町」、元禄九年(一六九六)京大絵図では「いけん丁」、元禄末の洛中絵図では「竪高台院丁」とあり、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成で「高たい院竪丁」となる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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