魚住城跡(読み)うおずみじようあと

日本歴史地名大系 「魚住城跡」の解説

魚住城跡
うおずみじようあと

[現在地名]明石市大久保町西島 居屋敷

赤根あかね川河口西側の台地上にあった中世の城跡。現在は住宅地などになり遺構は不明。もとは中尾なかお川河口西側の地端に築かれていた。城主は魚住氏で南北朝の初めに築かれたとされる(赤松家播備作城記)。文和四年(一三五五)二月魚角大夫房は摂津神南合戦に討死したという(「太平記」巻三二)。康正二年(一四五六)一二月、嘉吉の乱に滅んだ赤松氏を再興しようと大和国吉野の南朝攻撃のため宇智うち郡へ向かった人々のなかに、魚住彦四郎と主計亮がみえる(「上月満吉・堀秀世連署南方御退治条々」上月文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

4月1日の午前中に、罪のないうそをついて人をかついでも許されるという風習。また、4月1日のこと。あるいは、かつがれた人のこと。四月ばか。万愚節。《季 春》[補説]西洋もしくはインドに始まる風習で、日本...

エープリルフールの用語解説を読む