日本歴史地名大系 「明石市」の解説 明石市あかしし 面積:四九・〇〇平方キロ東は神戸市垂水区、南は播磨灘、西は加古郡播磨町、北は神戸市西区に接する。眼前に淡路島を望む景勝の地で、市域の地名は古くより歌にも詠まれ、「源氏物語」の舞台ともなった。市域の最長距離は東西一五・六キロ、南北九・四キロ、東西の最長距離より長い海岸線一五・九キロをもち、東経一三五度の子午線が東部を通る。瀬戸川・赤根(あかね)川・明石川が流れ、内部を国道二号、JR山陽本線の神戸線・山陽新幹線、海岸近くを国道二五〇号・山陽電鉄が通る。対岸の淡路島にある津名(つな)郡淡路町との間に明石海峡大橋が架かる。〔原始〕市域は瀬戸内海に面した海岸平野および洪積世中位段丘西八木層と、これらの段丘を刻む明石川・赤根川などの沖積平野からなる。旧石器時代の遺跡は更新世後期に属する西八木(にしやぎ)遺跡が知られる。西八木海岸はいわゆる「明石原人」とよばれるヒトの寛骨が採集された場所で、日本における更新世人骨研究の機運をつくった。また終末期に属する西脇(にしわき)遺跡が発掘され良好な資料が得られている。同遺跡の西方約一・六キロの明美(めいみ)丘陵上の寺山(てらやま)遺跡ではナイフ形石器・石核・掻器などが出土し、さらに南西約二〇〇メートルには円形掻器・長脚石鏃・楔形石器などが発見された金(かな)ヶ崎(さき)遺跡がある。縄文時代の遺跡は中期・後期の出(いで)ノ上(うえ)遺跡が知られるのみである。弥生時代の遺跡は上(うえ)ノ丸(まる)貝塚・北王子(きたおうじ)遺跡など十数ヵ所程度であるが、弥生期の貝塚は類例が少ない。古墳時代の遺跡は前期古墳とみられる幣(ぬさ)塚がある。後期古墳は十数基と少ないが、この頃から始まる窯業生産は高丘(たかおか)窯跡群・魚住(うおずみ)窯跡群へ引継がれて一大生産地に成長する。〔古代〕明石郡南西部と印南(いなみ)郡南東部の一部からなり、海岸沿いに東西に細長い地域を占めている。そのため「和名抄」所載の明石郡葛江(ふじえ)・明石・住吉(すみよし)・邑美(おうみ)の四郷の郷域のすべてまたは一部が市域に含まれていたことは確実で、神戸(かんべ)郷も一部が含まれた可能性がある。なお賀古(かこ)郡淡葉(あわわ)郷(「播磨国風土記」の鴨波里)の一部も市域西端に属する。「延喜式」神名帳記載の式内社のうち市域に比定される社に林(はやし)・伊和都比売(いわつひめ)の二社(小二座)があった。古代寺院には太寺(たいでら)廃寺があり、出土瓦から白鳳末期の創建と考えられ、同廃寺から遠くない大久保(おおくぼ)町には同時期の高丘瓦窯の存在が知られる。古代官道のうち唯一の大路である山陽道が市域を横断していた。明石駅家の有力比定地である吉田南(よしだみなみ)遺跡は隣接する西区に属するが、魚住町長坂寺(うおずみちようちようはんじ)の長坂寺遺跡を邑美駅家とする説がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明石市」の意味・わかりやすい解説 明石〔市〕あかし 兵庫県南部,神戸市の西隣にある市。播磨灘に沿って東西に細長い市域を占める。1919年市制。1942年林崎村,1951年大久保町,二見町の 2町と魚住村を編入。中心市街地は明石海峡を隔てて淡路島を望む地にあり,西国街道と四国街道の分岐点にあたる交通の要地で,古く宿駅が設けられた。元和3(1617)年以降小笠原氏,松平氏など 8万石の城下町となり,旧城址の石垣,堀,東西の両隅櫓(国指定重要文化財)がその名残りをとどめている。1960年代前半以降は西明石台地の国道2号線付近から海岸にかけて,さらに 1970年代前半以降は二見地区の東西 2km,南北 1kmにわたる埋立て地に製鋼などの工場建設が相次ぎ,工業化が急激に進んだ。山手の台地には大規模な住宅団地がある。西明石の八木海岸は明石原人,マンモス化石の発見地。柿本神社(人丸神社)の境内には日本標準時,東経 135°の子午線通過の標識柱のある明石市立天文科学館がある。南部を山陽新幹線,JR山陽本線,山陽電気鉄道,北部を第二神明道路が通る。面積 49.42km2。人口 30万3601(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by