鹿瀬庄
かせのしよう
加世庄または賀世庄とも記され、平教盛の所領とも伝えられる。正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)には「賀世庄 百八十六丁八反二丈 元三百二十丁」とある。
「平家物語」「源平盛衰記」には鹿瀬庄として安元三年(一一七七)鹿ヶ谷の陰謀に連座し鬼界ヶ島に流された平康頼らが、のち許されて帰京の途中に立ち寄ったと伝え、また法勝寺(跡地は現京都市)の執行俊寛が鬼界ヶ島から抜け出して「嘉瀬の庄」で死去したという伝えが残され、現在嘉瀬に彼が住んでいたと伝える法勝寺という寺が残っている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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