(正木喜三郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
平安末期の武将。平忠盛(ただもり)の子で、清盛(きよもり)の弟。1148年(久安4)に従(じゅ)五位下、保元(ほうげん)の乱の功によって左馬権頭(さまごんのかみ)となる。61年(応保1)、平時忠(ときただ)と憲仁(のりひと)親王(後の高倉(たかくら)天皇)の立太子を謀って解官(げかん)されたが、翌年には内蔵頭(くらのかみ)に復し、以後順調に昇進し、68年(仁安3)高倉天皇が即位すると正三位(しょうさんみ)、参議となり、81年(養和1)権中納言(ごんのちゅうなごん)、83年(寿永2)中納言に昇進し、門脇(かどわき)中納言とよばれた。その間、淡路(あわじ)、備中(びっちゅう)、大和(やまと)、能登(のと)などの国守を歴任。主として貴族社会の内部で活動して一門の勢力の拡大に努めたが、源平争乱のさなかに清盛が没すると、宗盛(むねもり)を補佐して京都防衛作戦の参謀役を果たした。83年7月、平家が都落ちしたのち、一門の武将が相次いで戦死すると、実戦にも参加し、備中(岡山県)水島(みずしま)に源義仲(よしなか)を破り、播磨(はりま)(兵庫県)室山(むろやま)で源行家(ゆきいえ)を撃退したが、文治(ぶんじ)元年3月24日、長門(ながと)(山口県)壇(だん)ノ浦(うら)で平家が滅亡した際、兄経盛(つねもり)と手をとって入水(じゅすい)した。
[田中文英]
平安末期の武将。忠盛の子。清盛の弟。保元の乱の功で大和守となる。1161年(応保1)憲仁親王の立太子を謀って左遷されたが,翌年内蔵頭となり,68年(仁安3)高倉天皇の即位のさい正三位・蔵人頭・参議,83年(寿永2)中納言と昇進。清盛の死後は一門の長老として宗盛を補佐して実戦にも参加し,備中水島で源義仲と,播磨室山で源行家と戦ったが,壇ノ浦の戦で敗北したさい,兄経盛とともに入水した。
執筆者:田中 文英
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1128~85.3.24
平安末期の武将。忠盛の三男。母は待賢門院女房で藤原家隆の女。清盛の異母弟。門脇中納言と称する。1148年(久安4)蔵人,従五位下。国司などを歴任し,後白河上皇の院司となる。61年(応保元)憲仁(のりひと)親王擁立の陰謀に加担した罪で解任,翌年許された。68年(仁安3)高倉天皇(憲仁親王)の即位とともに蔵人頭・参議,のち従二位中納言。平家一族では文官的役割をはたした。83年(寿永2)平家都落ちに従い,85年(文治元)壇ノ浦で入水。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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