加藤氏(読み)かとううじ

改訂新版 世界大百科事典 「加藤氏」の意味・わかりやすい解説

加藤氏 (かとううじ)

(1)伊勢国の中世武家。藤原利仁流の末裔景貞(清)が伊勢に下向,祖となったという。津市,鈴鹿市に景貞伝承の地がある。その子景員,孫景廉・光員は源頼朝挙兵に参加,その後,光員は頼朝側近として,また1185年(文治1)平家家人上総介忠清を志摩国で捕縛,没官領の注進など当国統治にも活躍,朝明郡豊田荘など数ヵ所の地頭職を得,左衛門尉,伊勢守に任官している。1206年(建永1)当時,彼は西面の武士として後鳥羽院と,道前(みちのさき)政所職(神宮領朝明郡,員弁郡,三重郡)として大神宮と関係するなど複雑な関係を持った人物であった。承久の乱には京方として,子光定と参加,所領は没収されて弟景廉に与えられ,光員はまもなく死亡したらしい。
執筆者:(2)豊臣秀吉家臣より興った大名で,藤原道長の末裔と称する清正流,藤原利仁の末裔と称する嘉明流,光泰流の3流がある。(a)清正流。清正は尾張中村出身で幼少より豊臣秀吉に仕え,1588年(天正16)肥後半国19万5000石を与えられ熊本城主。文禄・慶長の役で先陣をつとめ活躍。関ヶ原の戦では東軍に属し,肥後1国54万石に加増。1611年(慶長16)清正没後,三男忠広が継いだが32年(寛永9)領地没収,出羽庄内に1万石を与えられる。その子光広(光正)も早世し,断絶した。(b)嘉明流。嘉明は三河出身であるが近江で秀吉に仕え,1586年淡路1万5000石を与えられ,のち伊予松前10万石に加転。水軍を指揮した。関ヶ原の戦では東軍に属し,伊予松山20万石に加増。さらに1627年会津若松40万石に加転。子明成に至り43年領地返上(会津騒動),孫明友が石見吉永に1万石を与えられ,のち近江水口2万石に加転。その子明英は下野壬生2万5000石に転封,嘉矩の代に再び水口2万5000石に戻った。維新後,子爵。(c)光泰流。光泰は美濃出身で斎藤氏滅亡後秀吉に仕え,丹波周山城主,近江貝津・高島城主,美濃大垣城主を経て,1590年小田原の役後,甲斐24万石を与えられる。文禄の役に出征中,93年(文禄2)陣没。子貞泰は美濃黒野4万石に減転されたが,関ヶ原の戦で東軍に属し,1610年伯耆米子6万石に加転,さらに17年(元和3)伊予大洲6万石に転封。その子泰興は弟直泰に新谷1万石を分与した。ともに維新後,子爵。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加藤氏」の意味・わかりやすい解説

加藤氏
かとううじ

藤原姓。鎮守府将軍藤原利仁の子孫藤原景通が加賀介となって,初めて加藤と号した。孫の景員,その子景廉は源頼朝に仕え,景廉の子孫光泰,嘉明は,豊臣秀吉のもとで大名。のち江戸時代には,貞泰は伊予大洲,明友は近江水口を領した。以後,子孫世襲して明治にいたり子爵。また,尾張国愛智郡中村出身の清正は幼少より豊臣秀吉に仕えて数多くの戦功を立て,のち関ヶ原の戦いに徳川方に属し肥後 52万石を領するにいたったが,その子忠広のとき,寛永9 (1632) 年除封された。

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