紫雲寺潟新田(読み)しうんじがたしんでん

改訂新版 世界大百科事典 「紫雲寺潟新田」の意味・わかりやすい解説

紫雲寺潟新田 (しうんじがたしんでん)

越後国蒲原郡にあった紫雲寺潟という東西約2里,南北約1里の湖沼を干拓してつくった新田。現在の新潟県新発田市の旧紫雲寺町,旧加治川村,胎内市の旧中条町の一部。江戸時代中期に多くみられたいわゆる町人請負新田の中で,最も大規模かつ典型的なものである。信州高井郡米子村の御用硫黄商竹前権兵衛・小八郎兄弟が企図して1726年(享保11)幕府開発許可を出願し,そのさい江戸横山町の成田佐左衛門を請人にたてた。のち越後柏崎の宮川四郎兵衛とその養子儀右衛門からの資金・技術面での協力も得た。翌27年に幕府から許可がおり,28年に干拓工事に着手,32年にほぼ工事を完了した。その結果,約2000町歩の新田が誕生し(四二新田),うち500町歩は竹前,成田,宮川に無地代で下げ渡された。なお紫雲寺潟は新発田藩領の地先にあったが,幕府はその領有権を主張し,開発成就後天領に編入した。またこの開発は,1村1人所有という典型的な新田地主を生みだしたことでも知られる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「紫雲寺潟新田」の解説

紫雲寺潟新田
しうんじがたしんでん

江戸中期,越後国蒲原郡にあった潟湖の紫雲寺潟を干拓して造られた新田の総称。現在の新潟県新発田市・胎内市にあたる。信濃国米子(よなこ)村で硫黄採掘業をしていた竹前小八郎が,その没後は兄権兵衛が中心となって開発。1727年(享保12)幕府から開発を許可され,32年にほぼ干拓された。総面積約1700町歩,42の新田ができ,このうち竹前家には500町歩が与えられた。

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世界大百科事典(旧版)内の紫雲寺潟新田の言及

【越後国】より

…財政基盤の充実策として新田開発も促進された。1730年(享保15)将軍吉宗の享保改革の一環として阿賀野川河口の松ヶ崎掘割工事が行われ,紫雲寺潟新田が開発された。これは信州米子の竹前権兵衛が出願し,これに江戸の会津屋,柏崎の宮川その他の資本を投下して行ったもので,1736年(元文1)検地の結果では1647町歩の田畑を得た。…

【干拓】より

…近代の京都市南の巨椋池(おぐらいけ)(大池)干拓地では淀川に通ずる排水口である一口(いもあらい)に強力な電力排水ポンプが設置され(1934),これが巨椋池干拓地を支える最大の柱となっている。歴史的に著名な越後紫雲寺潟新田の陸化に際しては,初めから排水に苦心していたが,ひと夜暴風雨によって排水の河筋が決壊し,はからずも一挙に排水しえたと記しているのは,これらのことが予想外の事件で禍福相転じた例として興味深い。なお海岸遠浅地での土砂の滞留による浅海化を促進するため,有明海などでは海中に木,石を投棄したが,これをよりどころとして,土砂が波の動きにつれてたまり,浅海化を一段と促進したこともあるとみられている。…

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