日本歴史地名大系 「紫雲寺潟」の解説
紫雲寺潟
しうんじがた
現在の紫雲寺町・
〔干拓前史〕
紫雲寺潟が享保期(一七一六―三六)に干拓される以前、湖岸には農耕や漁猟に従事する四五ヵ村ほどの村があったが、加治川などが氾濫するたびに潟の湖面が上昇して耕地を水没させる常襲の水害地帯であった。湖水を日本海へ流出させて安定的な耕地にすることは湖畔の村々の早くからの願いであったが、新潟湊の反対もあってなかなか実現しなかった。当時加治川は
湖岸村民の交渉の結果、紫雲寺潟に排水路を付けて湖水を海に落す工事が新潟湊の承認のもとに計画されたのは宝永六年であった。享保六年三月一七日に排水堀の開削に着手し、同年五月一〇日には長さ一千六〇〇間、深さ七尺の排水堀が竣工し、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報