ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「キュタヒヤ条約」の意味・わかりやすい解説
キュタヒヤ条約
キュタヒヤじょうやく
Kütahya
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…11世紀以降,トルコ系諸族,ティムールの侵入・支配を受け,オスマン帝国時代はサンジャク(県)の主都がおかれた。1833年,イスタンブールをめざし進攻するエジプトのムハンマド・アリー朝とオスマン帝国の講和がこの地で結ばれた(キュタヒヤ条約)。イスタンブールとアンカラを結ぶ鉄道のほぼ中間に位置するエスキシェヒルおよび南方のアフヨンカラヒサルとは鉄道で結ばれる。…
…しかし,政治的には多難で,民族的独立を要求するバルカン諸民族の相次ぐ蜂起(1829年,ギリシア独立,セルビア自治権獲得)と,これに対するロシアの干渉とに苦しんだ。また,彼の強引な中央集権政策は,アナトリアの民衆の不満を増大させ,この地方に対する,ムハンマド・アリーのエジプト軍の進駐を容易にし,1833年のキュタヒヤ条約によってシリア割譲を余儀なくされた。また38年に彼がイギリスとの間に締結した通商条約は,オスマン帝国の関税自主権を喪失させ,半植民地化への道を開いた。…
※「キュタヒヤ条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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