クロスビー(英語表記)Bing Crosby

デジタル大辞泉 「クロスビー」の意味・読み・例文・類語

クロスビー(Bing Crosby)

[1903~1977]米国のポピュラー歌手俳優。甘い歌声でラジオ・レコード活躍、「ホワイトクリスマス」が大ヒットした。「わが道をく」など映画にも多く出演

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「クロスビー」の意味・わかりやすい解説

クロスビー
Bing Crosby
生没年:1903-77

アメリカポピュラー音楽の歴史に最大の足跡を残した歌手。本名Harry Lillis C.。生年に関しては1904年など諸説があるが現段階では1903年に最も信憑性があるとされている。ワシントン州タコマの生れで,アル・リンカーと二重唱をしていたが,26年に人気バンド,ポール・ホワイトマン楽団の専属歌手となって人気が出た。31年,ソロ歌手となり,ラジオ放送とレコードで不況時代のアメリカ人の心をつかんだ。柔らかで明るいバリトンで,なめらかな節回しで歌いながらもリズム感覚にジャズフィーリングをもっているのが彼の特徴で,数多くの後輩歌手たちに多大の影響を与えた。42年に録音した《ホワイト・クリスマス》は世界で最大の売上げ枚数を記録した。
執筆者:

すでに1920年代にポール・ホワイトマン楽団と出演した数本の短編映画がある。長編映画出演は,30年のユニバーサル映画《キング・オブ・ジャズ》が最初だが,32年のパラマウントとの契約第1作《ラジオは笑う》で早くもスターの座を獲得した。この間のラジオ番組での人気が,映画と結びついたといわれる。さらに,ボブ・ホープとの絶妙なコンビによる〈珍道中シリーズ〉(1941年の《シンガポール珍道中》が第1作)など,喜劇的演技をはじめ,当初の歌うスターから芸域を拡大,型破りの神父役でアカデミー主演男優賞を獲得した《我が道を往く》(レオ・マッケリー監督作品。1944),グレース・ケリーと共演したクリフォード・オデッツの舞台劇による《喝采》(ジョージ・シートン監督作品。1954)等で,演技者としての名声も得て,50年代半ばまで連続してマネーメーキング・スターのベストテン入りを果たした。その演技の幅は,大恐慌から第2次大戦をへて戦後の繁栄期にいたるアメリカの中産階級の楽天的な〈夢と良心と良識〉の範囲を示しているといえよう。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クロスビー」の意味・わかりやすい解説

クロスビー
くろすびー
Bing Crosby
(1903―1977)

アメリカのポピュラー歌手、俳優。本名ハリー・リリス・クロスビー。ワシントン州生まれ。1926年ポール・ホワイトマン楽団に参加し、リズム・ボーイズというボーカル・トリオを組んで注目され、31年に独立。ラジオ、レコード、映画に活躍し、他界するまでアメリカを代表する大スターの地位を保持した。もっとも早くマイクロホンの活用法を会得し、自然な発声とジャズのセンスで新しいスタイルを創造し、フランク・シナトラほか多くの歌手に影響を与え、現代ポピュラー・ボーカルの基盤となった。白人ジャズ歌手の草分け。映画出演は1930年からであるが、40年代にはボブ・ホープ、ドロシー・ラムーアDorothy Lamour(1914―96)とのトリオによる『アラスカ珍道中』(1945)などの「珍道中」シリーズで絶大な人気を集め、『我が道を往(ゆ)く』(1944)ではアカデミー主演男優賞を受賞した。また『スイング・ホテル』(1942)で創唱した『ホワイト・クリスマス』は彼の最大ヒットで、いまもシーズンともなれば全世界で愛唱されている。

[青木 啓]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「クロスビー」の意味・わかりやすい解説

クロスビー

米国のポピュラー歌手,映画俳優。ワシントン州タコマの生れ。ポール・ホワイトマン楽団のコーラスとして有名になる。その後ソロシンガーとして独立。甘いバリトンと柔らかな節回しで,後の歌手たちに大きな影響を与えた。映画にも出演し,《我が道を往く》(1944年)の名演が知られる。1942年に録音した《ホワイト・クリスマス》(I.バーリン作曲)が最大のヒット曲。
→関連項目ビスタビジョンホワイトマン

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クロスビー」の意味・わかりやすい解説

クロスビー
Crosby, Bing

[生]1904.5.2. アメリカ,ワシントン,タコマ
[没]1977.10.14. スペイン,マドリード近郊
アメリカの歌手,映画俳優。 1927年ポール・ホワイトマン楽団のコーラスグループに参加,31年には独立,甘い歌声でセンセーショナルな人気を得た。広いレパートリーをもち常にアメリカの代表的スターの座を保ち続け,歌手活動のかたわらミュージカル映画にもしばしば出演,44年の『我が道を往く』ではアカデミー主演男優賞を獲得した。歌のなかでは『ホワイト・クリスマス』が最も有名。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「クロスビー」の解説

クロスビー Crosby, Julia Neilson

1833-1918 アメリカの宣教師。
1833年7月31日生まれ。明治4年(1871)アメリカ婦人一致外国伝道協会のピアソン,プラインとともに来日。アメリカン・ミッション・ホーム(現横浜共立学園)を設立,プライン帰国後2代総理。14年偕成伝道女学校(のち共立女子神学校)を併設した。大正7年7月4日横浜で死去。84歳。ニューヨーク州出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のクロスビーの言及

【喜劇映画】より

…ロイドから曲技をさし引いたようなその個性と,各国のなまりをあしらった早口ソングの芸をもっともよく生かしたのが《虹を摑む男》(1947)である。1930年代の終りに映画デビューをしたボブ・ホープは,日本では《腰抜け》のシリーズ名を冠された単独主演の諸作品よりも,人気歌手ビング・クロスビーとのコンビによる《珍道中》シリーズで個性を発揮した。当時,〈スタンダップ・コミック〉(日本でいう漫談)の第一人者であるホープの舌先三寸の芸は,二枚目の相棒クロスビーをジョークでからかいつつも,そのクロスビーにしてやられては悔しがるというパターンの中で,もっともはつらつとした。…

【クルーナー】より

…1930年代に現れた,あるタイプのポピュラー歌手を指す言葉。B.クロスビーがその代表で,ちょっと鼻にかかった柔らかい声と,ジャズから学んだ節まわしを特徴とした。それまでの歌手たちが,張った声でメロディをストレートに歌っていたのに対して,しゃれた軽快な感じが大いに受けた。…

【〈珍道中〉シリーズ】より

…人気歌手ビング・クロスビーと喜劇俳優ボブ・ホープとグラマー女優ドロシー・ラムーアのトリオが主役のアメリカのナンセンス喜劇シリーズ。《シンガポール珍道中》(1941)から《ミサイル珍道中》(1962)まで計7本製作された。…

【ポピュラー音楽】より

…いずれも黒人が白人から学び取った音楽技法や楽器を,彼ら独自の感覚に消化して生み出した混血音楽であるが,とくに黒人底辺層の民族音楽の要素を強くもったブルースが,その後も黒人の生活感覚に密着しつづけていったのに対し,ヨーロッパ的な音楽要素を多分に取り入れたラグタイムとジャズは,ただちにメーンストリーム音楽との接触が生じて,ティン・パン・アリーから,例えば1911年にバーリン作の《アレクサンダーズ・ラグタイム・バンドAlexander's Ragtime Band》といった大ヒット曲が生み出される一方で,ジャズでもティン・パン・アリー製の曲を素材として盛んに取り上げた。1930年代初めには,ジャズの感覚を吸収した歌手B.クロスビーが,メーンストリーム音楽で最高の人気を占め,ポピュラー・シンガーがジャズ風の楽団を伴奏にして歌うのはごくありふれたこととなり,社交ダンスの音楽にもジャズの要素が大幅に取り入れられた。 それとともに,1910年代にはハワイ音楽やアルゼンチンのタンゴ,30年代にはキューバのルンバとコンガ,40年代にはメキシコやブラジルのいくつかの曲,50年代にはキューバのマンボが輸入され,音楽業界だけでなくハリウッドの映画産業をも含めて,アメリカの大衆文化に刺激を与えた。…

※「クロスビー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android